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新元号考案者 中西進さんら 被爆死の恩師 令和に悼む 広島高師付属中の瀬群さん

「万葉集 語りたかった」

 新元号「令和」の考案者とされる万葉集研究の第一人者、中西進・大阪女子大元学長(89)=京都市=たちに広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)で国語を教え、31歳で被爆死した教諭がいた。新元号の出典となった万葉集を愛した歌人でもあった瀬群(せむれ)敦さん。令和初めての原爆の日を前に、中西さんたち教え子がその死をあらためて悼んでいる。(水川恭輔)

 「瀬群先生に大好きな国語を教わった。いつも鎖のついた懐中時計をして、眼鏡の奥の目をきらきらさせていた姿を思い出す」。中西さんは今月中旬、中国新聞の取材に語った。

 瀬群さんは、中西さんたち1942年に入学した「38回生」に国語を教え、3クラスのうち1クラスの担任も務めた。この学年が3年の途中から陸軍被服支廠(ししょう)(現南区)に動員されると、現地で監督した。

 同時に、自然風景や学校生活を詠んだ短歌も発表していた。38回生で呉市に住む中西巌さん(89)は国語の授業で「万葉集は人間賛歌だよ」と教えられた。「戦時下でも、人や自然を愛するのが大事と伝えたかったのではないか」と話す。

 同級生の森武徳さん(89)=熊本市=も、生徒に寄り添った人柄をしのぶ。例えば、英語に関心のあった森さんが動員時、倉庫の軍靴を包んでいた米国の新聞を盗み読んでいたとき。「瀬群先生はしかるどころか英文の意味を一緒に考え、分からなければ持ち帰らせてくれた。公になれば、ただでは済まなかったろうに」

 しかし45年8月6日。爆心地から約1・5キロの付属中にいた瀬群さんは、倒壊した木造校舎の下敷きになった。翌日から焼け跡を捜した同僚は「瀬群教官の遺骨はそこにあった彼の時計ですぐに確認できた」(同校「創立百年史」)という。

 それから74年。中西進さん考案とされる令和の始まりに、同級生は瀬群さんをしのび、「あの日」を繰り返さないと誓う。被爆証言を続けてきた中西巌さんは「教え子が万葉集から考えたとされている。知れば先生も喜ぶだろう」と話す。

 中西進さん本人の話によると、万葉集研究の直接のきっかけは付属中に2年間通った後、東京に転校してから。一方で「広島で国語の面白さを学んだ。万葉集などを話題に瀬群先生とさらに親交を深めたかった」と話し、被爆死を「ああ、若くして…」と惜しむ。

 同校の慰霊碑は、瀬群さんたち教職員8人を含む101人の学校関係者の名前が原爆死没者として刻まれている。中西進さんの同級生の多くは、被服支廠で被爆した。「私も転校せずに広島にいれば、被服支廠で被爆していただろう。戦争は二度と起こしてはならない」。原爆の日に向け、新時代が平和であるよう同級生たちと願いをともにする。

 <瀬群敦さんの経歴>遺稿歌集「遠山脈(とおやまなみ)」(1979年刊)などによると、13年、大分県生まれ。広島高等師範学校卒業後、41年から広島高師付属中の国語教諭。「瀬群統三」の名前で短歌を発表していたが、45年に被爆死した。遺稿歌集は教え子で国語教諭だった故石田民生さんたちが編集。「膝につく程頭(かしら)を下げて過ぎ行きぬ新しき服の一年生は」などと教諭生活を詠んだ作品のほか、尾道などの自然風景や時局を扱った計857首を収めている。

(2019年7月31日朝刊掲載)

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