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女性記者 直面した壊滅広島 手記で判明 西日本新聞の福永さん 

遺骨収め肉親捜索

 原爆で壊滅直後の広島に女性記者が福岡から入り被爆していた。西日本新聞社記者だった福永トシさん(1923~2002年)。広島支局員や自身の肉親を捜して取材にも当たった。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区の平和記念公園内)が収める被爆体験記14万7千余編から裏付けが見つかり、遺影が寄せられた。(西本雅実)

 「お乳がポックリと逆さにぶら下(が)っている人たちがヨロヨロと歩いていた。一面の死体だった」「支局のあった所がわからず翌日も朝から中心部を歩き…『地獄だ、地獄だ』と心の中で叫んでいた」

 被爆者実態調査で旧厚生省が1995年初めて募った体験記に寄せた一文だ。東京・調布市原爆被害者の会が88年に編んだ「明日へわたしの証言」では、病魔が続く半生を12ページにわたり表していたのも分かった。

 広島が壊滅した翌45年8月7日夜、当時21歳の福永記者は、前文化部長らと列車で己斐駅(現西広島駅)に着く。爆心地近く尾道町(中区大手町)の支局跡で、顔なじみの女性事務員と、新人男性記者の遺骨を収めた。さらに同行していた母と、翠町(南区)に住む姉家族や弟、妹を捜して見つける。福岡へは15日に着き、原稿は「一生懸命書いて出したが…どこかでボツにされてしまった」(88年手記)という。

 西日本新聞社の在籍記録によると、43年に採用され45年3月からは企画連絡部所属の記者。翌年に東京支社編集部へ転勤するが、48年に依願退社していた。

 上京した家族を支えるため銀座や新橋で飲食店を営み、一人息子を育て上げた。国に宛てた被爆50年の手記は「肝硬変を始め十一もの病気…一生被爆で苦しんで来た人生だったと思う」と結んでいる。

 母の遺影を祈念館に寄せた福永立夫さん(67)=東京都府中市=は、最期まで一緒に暮らした。「歩けなくなっても私の妻にも愚痴をこぼさない。気の強い人でしたが、原爆の広島で見たことは話したがらなかった」という。トシさんの妹喜代子さんは被爆11年後に20歳で死去していた。

 「西日本新聞百年史」(78年刊)は、広島壊滅時は出張からの帰途にあった元支局長の手記を収める。「本社から救援の」先輩男性2人の名前はあるが、福永記者には触れていない。

 一連の記録を調べた叶真幹・祈念館長(64)は「福永さんは、己斐町(西区)に置かれた臨時広島支局の様子も記している。地元には当時いなかった女性記者が救援や取材で入ったのは間違いない」とみている。

直後の原爆報道
 1945年8月6日、中国新聞は本社が全焼し、毎日新聞西部本社の代替印刷で9日付から再開。朝日新聞西部本社は岸田栄次郎記者が7日、同盟通信(現共同、時事)は大阪支社の中田左都男記者が10日に入り写真も撮る。西日本新聞10日付は、山口支局荒牧博之記者による広島発を「復興救護へ戦友愛」の見出しで掲載。惨禍の報道は、敗戦を機に一気に始まるが、米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)の検閲で封印された。

(2019年8月1日朝刊掲載)

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