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米で被爆治療 期待と不案 27歳で客死・中林さん 家族宛て書簡や日記 名簿奉納

 広島から1955年「渡米治療」に臨んだ被爆独身女性25人の1人で翌56年に客死した、中林智子さん=当時(27)=が家族に宛てた書簡や滞米時の日記があった。形成手術への期待と不安、現地での交流を細やかにつづる。智子さんが「原爆死没者名簿」に登載されていないことも分かり、広島市は8月6日の平和記念式典で原爆慰霊碑に追加奉納する。(西本雅実)

 東京都三鷹市に住む姉の篠原英子さん(91)が自身宛ての6通を、杉並区在住の妹井上繁子さん(83)が同居した母の遺品でもある日記2冊を、「智子ちゃんのことを知っていただけるなら」と公開した。併せて、名簿への登載を広島市に申請した。姉妹も東京大空襲から疎開して被爆した。

 45年8月6日、智子さんは両親や姉妹と住む白島北町(現中区)から東白島町にあった県立工業試験場へ出勤し、爆心地の1・6キロ前後で原爆に遭った。「衣服に火がついたまま帰ってきた」と繁子さんはいう。

 洋裁学校の講師となったが、右肘や左手指先が自由にならなかった。「名前が呼ばれた時は本当に喜びました」。英子さんは、渡米治療に選ばれた55年4月のラジオ・ニュースを一緒に聞いた。被爆者への援護はいまだなかった。

 渡米治療は、「原爆孤児」の支援を米国で提唱したノーマン・カズンズ氏(90年死去)が広島市にも働き掛けて実現。ニューヨークを代表するマウント・サイナイ病院や、「非戦」のクエーカーらが1年半に及んだ事業に寄与した。

 日記には、ニューヨークに着いた翌55年5月10日から7月12日までが残る。当初は2人一組で約1カ月ごとに転居したクエーカー家庭での日々を詳細に記す。「If you please(おねがいします)」と覚えた実践会話もきちょうめんにつけている。

 「一カ月余りの病院生活を終(おわ)り…」。最初の手術は同8月16日、右手甲から腕に左足ももの皮膚を移植した。術後の様子、広島からの25人に付き添い通訳も担った日系2世横山初子さん(99年死去)らの励まし、帰国後の人生設計。結婚で東京へ戻った1歳違いの姉へ長文の書簡を送っていた。

 「留学の事は…再び先生と会つて…」。現地の服飾学校で技術を磨く考えを伝えた56年4月30日投函(とうかん)が最後の便りになる。3回目の手術に臨んだ同5月24日(日本時間25日)麻酔から覚めなかった。解剖結果は「心臓まひ」であった。

海外の視点も説き貴重

  被爆史を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授(72)の話
 被爆者医療のみならず海外がヒロシマをどう捉えたのかを説く貴重な記録だ。当時は「原爆乙女」と呼ばれた人たちが報道を通じて世論を高め、1957年の原爆医療法制定を促した。25人の渡米は被爆者の存在を米国市民に気づかせた。人間の原爆被害は抽象論ではなく固有名詞をもって語られるべきだ。原爆資料館もそうした史料の収集・展示にもっと努めてほしい。

(2019年8月2日朝刊掲載)

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