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連載・特集

ヒロシマ・ガールズ 27歳の生と死 <上> 原爆の傷痕

洗礼で心の平穏求める 渡米治療 25人が参加

 被爆のため渡米治療に臨んだ翌1956年にニューヨークの病院で客死した、中林智子さん=当時(27)=の書簡や日記が現存する。どんな思いで生き逝ったのか―。語ることができない軌跡を追う。原爆がもたらした人間の被害をあらためて見つめる。(西本雅実)

 「生きていたらどんなにか…この年になっても悔しく思います」。姉の篠原英子さん(91)=東京都三鷹市=は、10セント切手付きの航空便を小箱から取り出した。万年筆でびっしり書かれ55年6月から翌年4月に投函(とうかん)の6通があった。自身の初出産前に届いたベビー服も自宅に残す。

 妹の井上繁子さん(83)=杉並区=は、A5判ノート2冊を開いた。ニューヨークに着いた55年5月9日の翌日に始まり7月12日までを記す。「物静かだったけれど心(しん)は強い人でした」

 3姉妹は東京で生まれ育った。父は旧特許局官吏。45年3月10日の東京大空襲から、父方の祖母が住む広島へ疎開し白島北町(現中区)に両親と住んだ。

 「8月6日」、英子さんは出勤した広島鉄道局(南区)で被爆し背負われて郊外へ。東白島町(中区)の県立工業試験場に出た智子さんは、繁子さんと両親が遭った自宅へ「目も見えない姿」で帰ってきた。皆で近くの長寿園に逃げた。

 父孟(はじめ)さん、母美晴さんはキュウリをすって傷を懸命に癒やした。だが、原爆に焼かれた肌身には忌まわしい傷痕が残る。右肘は屈伸ができなくなり左手指先は癒着した。

帽子作りに励む

 「自分の手を見て時には泣いていました」。妹の打ち明け話に、姉は「動かせる指で帽子作りに励んだわ。私たちと違ってとても器用でした」と補った。

 橋本町(中区)にあった三木ドレスメーカー女学院に通い、東京に一時出て皇族にも納めるデザイナーのもとで学ぶ。広島に戻ると母校の専任講師となった。

 やがて、カトリック三篠教会(西区)で50年12月24日に洗礼を受ける。今も都内にあるキリスト教系女子高を、戦時下の学年短縮で1歳違いの姉と一緒に卒業していた。式は、ドイツ出身で幟町教会(中区)で被爆し戦後は日本国籍となっていた、高倉誠神父(78年死去)が執り行った。

 智子さんの思いを、「高倉神父を見て信仰する強さを持ちたい、何かにすがりたいという気持ちがありました」と英子さんは推し量る。右肘を広島で手術し、夏になると瀬戸内海で姉の友達とも泳ぎを楽しんだ。

 55年4月、ニューヨークから文芸誌主筆ノーマン・カズンズ氏が外科医2人を伴い広島を再訪する。流川教会の谷本清牧師が主宰する「原爆乙女の会」と2年前に対面し、米国での治療を各界に働き掛ける。日本は復興途上にあり被爆者への援護制度はなかった。

見送りが別れに

 原爆を投じた国での治療には真意を疑い、冷ややかな声も起こった。被爆地の意識的な医師らが53年につくった「広島市原爆障害者治療対策協議会」(会長・市長)は受け入れ、予診が市民病院で3日間行われる。

 形成手術への効果や体力面から25人が選ばれ渡米する。「ヒロシマ・ガールズ」と現地では呼ばれた彼女たちが、被爆者の存在を全米の市民に気付かせる。

 一行は55年5月5日、岩国空港から米軍機に乗り込む。智子さんは手作りのベレー帽を着け、機内窓から自身を指さしてみせたという。それが見送った両親や姉妹と、互いに思いもしなかった別れとなる。

(2019年8月3日朝刊掲載)

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