×

ニュース

ヒロシマ・ガールズ 27歳の生と死 <中> 渡米治療

人々の善意 心の傷癒やす 現地で学ぶ希望抱く

 被爆独身女性の一行を乗せた米軍機C54は1955年5月9日、ニューヨーク郊外の基地に降り立つ。

 「ヒロシマ・ガールズ手術のため当地着/初の原爆攻撃の傷に苦しむ25人マウント・サイナイ病院で」。ニューヨーク・タイムズ10日付はこの見出しに、摩天楼街にある病院の前に並ぶガールズの写真など3点を組み大きく扱う。

 一行を代表した29歳女性(95年に死去)のあいさつや、婦人服仕立てをしていた23歳女性(2017年死去)の発言を報じ、2人一組の宿泊と世話は「フレンズ・センター」(「非戦」のクエーカー団体)が担う、と事業内容も詳しい。

 23歳女性は原爆被害についてこう述べていた。「私たちは恐るべき破壊を体験したが、戦争は日本軍が始めた。戦争を憎みます」

 米国は水爆実験を南太平洋で続け、原水爆の反対は「共産主義者の陰謀」ともみなした。実際、国務省はガールズの渡米を阻止しようと動いていたほどだ。

 中林智子さん=当時(26)=の日記によると、一行は到着翌10日にクエーカーの研修所へ。英会話にダンスも習う。彼女たちは着物姿で炭坑節も踊ってみせた。24日まず2人が病院へ、各ホスト家族が23人を迎えに来る。智子さんは、プールもある銀行家宅に移ったが、「言葉のわからない世界へ…」と心細さも記す。原則1月ごとに転居した。

術後経過詳しく

 8月16日、右手甲から腕の形成手術に臨む。「全身ますいで何もわからず…左足ももより大きく三カ所取つたので…歩くことも出来ませんでした」。退院は9月18日。指も腫れていたがペンを執り、結婚で東京へ戻った一つ違いの姉に便箋4枚で伝えていた。

 その篠原英子さん(91)=東京都三鷹市=が今も大切に残す書簡は、ガールズを受け止めた人々の善意や言動を通じて、智子さんも心身の傷がほぐれていったことを浮かび上がらせる。

 事業を率いたノーマン・カズンズ氏(90年に75歳で死去)らが開く各パーティーでの出会い、ホスト家族に「智子はとてもプリテイ」と言われた喜びをつづる(55年11月16日投函(とうかん))。

 2回目は左手で56年1月5日に受けた。

 「素晴らしい手術で他のお友達もびつくりすると共に皆、喜んでくれました」。指は「少しずつ練習したらのびるかもしれません。何分十年曲がつて居たのですから」と回復の予感を記す(2月9日同)。

執刀は元従軍医

 病院はガールズに専用2室を充てた。クエーカーにとどまらず、大戦中は「敵性外国人」として収容された日系人らが見舞った。執刀は、欧州戦線に従軍したこともある外科医3人が務めた。

 「われわれは戦場で恐ろしいほど傷ついた人間を診た。その経験が役立つならばと、治療を引き受けたんだ」。バーナード・サイモン氏は、ガールズ4人とニューヨークで再会した96年、現地で取材した中国新聞の記者にそう語った(氏は99年に87歳で死去)。

 智子さんが2回目の手術後に宛てた書簡に戻ると、「私の手術は全部済んだと思ひます」と伝えていた。さらに4月30日投函では、留学する考えを濃くにじませた。「来週…先生と会つて色々とお話をする事になつて居ます」。現地の服飾学校で学び、帽子デザイナーになる希望を抱いていた。

 筆まめの智子さんは、両親と妹が待つ広島市白島北町(現中区)の留守宅へも手紙で近況をたびたび伝える。そこへ突然、訃報が飛び込んだ。(西本雅実)

(2019年8月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ