法廷で救済訴え 今も 原爆症訴訟解決うたう確認書締結 6日で10年
19年8月5日
被爆地での首相発言 注目
2009年8月6日、原爆症認定訴訟を終結させようと、政府と日本被団協が確認書を取り交わした。あれから10年目の夏。自らの病を原爆のせいと認めてほしいと願う被爆者が、法廷で争わざるを得ない状況は今なお続く。「原爆の日」に広島を訪れる安倍晋三首相は何を語るか。被爆者は固唾(かたず)をのみ見守る。(河野揚、田中美千子)
「訴訟で争う必要がないよう解決を図ると言いながら政府は約束違反をしてきた。許せない」。7月末に被団協が厚生労働省で開いた記者会見で木戸季市事務局長(79)は語気を強めた。
被団協が主導し、広島や長崎など17地裁で集団訴訟を起こしたのは03年にさかのぼる。国に原爆症と認められなかった原告306人が司法の場で連勝。国が08年に認定基準を緩和するに至るが、この新基準で原爆症と認められなかった被爆者も相次ぎ勝訴した。
細かい被爆条件
政治が動いた。当時の麻生太郎首相が確認書調印を決める。
確認書は、一審で勝った原告を高裁の判断を仰がずに原爆症と認め、敗訴した原告も国拠出の基金で救う方向性を示した。さらに厚労相と被爆者たちの定期協議を開き、原爆症認定問題の解決を図る、と明記した。広島市で麻生首相と被団協の坪井直代表委員、当時事務局長だった田中熙巳(てるみ)代表委員が署名に臨んだ。
全面解決にはしかし、至らなかった。厚労省は認定制度見直しに向け、10年12月に有識者検討会を設置。3年間の議論の末に示されたのは、認定範囲拡大への慎重姿勢だった。細かい被爆条件が定められ、病気によっては被爆地点から爆心までの距離などの条件が狭められた。
「厚労相は形式的に私たちと会うだけ。あれは協議とは言えない」。広島で被爆した被団協役員の家島昌志さん(77)は会見で、憤りをあらわにした。
「公正に慰謝を」
被団協は12年、現行の認定制度をなくす代わりに全被爆者に「被爆者手当」を支給し、障害に応じ加算する仕組みを提唱した。症状によっては、原爆症認定者の手当(月約14万円)が減る可能性もある。それでも「全ての被爆者に公正に慰謝を」と願うからだ。
厚労省は応じる姿勢を見せない。「科学的知見に基づき、議論の末につくった現行基準は重い」との理由からだ。業を煮やした被爆者約120人は新たな裁判を起こし、勝訴を重ねる。
「裁判をしないと救済されないのは不正義だ」。原告を支える弁護士は、会見をこう締めくくった。「高齢化で、法廷に立てる人も減った。首相は被爆地に赴き、原爆被害を認められずに多くの被爆者が亡くなっている現状を直視し、制度改正を決断してほしい」
<原爆症認定を巡る主な出来事>
1945年 8月 米国が6日に広島、9日に長崎へ原爆投下
57年 4月 原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳の交付を盛り込む
68年 9月 原爆被爆者特別措置法が施行。特別手当などを創設
95年 7月 被爆者援護法施行
2001年 5月 厚生労働省が放射線による発症リスクを数値化した「原因確率」 による認定基準を決定
03年 4月 原爆症認定集団訴訟始まる
06年 5月 全国の集団訴訟の初判決で、大阪地裁が9人全員を原爆症と認め る
8月 広島地裁が41人全員を原爆症と認める。各地の裁判所で国の 敗訴相次ぐ
08年 3月 厚労省が認定基準緩和。「原因確率」を使わず、がんや白血病 など5疾病を一定条件で積極認定。4月から運用
09年 6月 厚労省が原爆症認定基準を再び緩和。積極認定の対象に、放射 線起因性が認められる肝機能障害と甲状腺機能低下症を追加
8月6日 集団訴訟の終結へ政府と日本被団協が確認書を締結。一審勝訴 で認定、敗訴も救済へ
12月 集団訴訟の敗訴原告に解決金を支払う基金に国が補助する法律 が成立
10年 1月 当時の長妻昭厚労相と被爆者たちが初の定期協議
12月 厚労省の有識者会議「原爆症認定制度の在り方に関する検討 会」が初会合
13年12月 有識者会議の提言を受け、厚労省が積極認定する7疾病の新し い審査方針を決定。疾病によっては爆心地からの距離条件などを 従来より狭める
(2019年8月4日朝刊掲載)