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結婚の夢 奪った原爆 届いた手紙 三重の下村さん、資料館に寄贈

「娘は死にました」

 原爆投下の1年後、広島から届いた便りを下村喬さん(96)=三重県鈴鹿市=が保管していた。下宿先で世話になった女性からの手紙。下村さんのことを「いずれ自分の娘の結婚相手に」と願っていた女性が、娘の被爆死を伝える内容だった。人々の普通の暮らしとささやかな幸せを奪った原爆の悲惨さを刻む。(明知隼二)

  「可愛(かわい)そうに千枝子はあの爆弾で死にました」(原文のまま、以下同)
 下村さんに手紙を寄せたのは翠町(現広島市南区)の自宅で下宿を営んだ池田逸江さん(1984年に81歳で死去)。便箋5枚につづられた手紙の日付は46年8月14日。日本銀行広島支店に勤めていた長女千枝子さんが亡くなって、ちょうど1年だった。

 広島高等工業学校(現広島大)の学生だった下村さん。「家族の一員のようだった」と池田家での日々を振り返る。2歳下の千枝子さんと音楽会に出掛けたこともあった。卒業時、逸江さんから「将来の結婚の候補に」と千枝子さんの写真を手渡された。

 海軍入隊後の45年4月、呉市の基地を千枝子さんが1人で訪ねてきた。思い詰めた様子だった。「日銀を辞めて俺の所に」。下村さんはそう言いかけ、言葉をのみ込んだ。当時21歳。悪化する戦況下、明日をも知れぬ身。何も言えないまま駅で見送ったのが最後の別れとなった。

  「あの時、喬ちゃん、しっかり何か云(い)ふてやって下さいましたら日銀もよしていたかも知れなかったわ」
 8月6日。千枝子さんはいつもより10分早く出勤し、白神社(現中区中町)付近で、路面電車内で被爆した。西城町(現庄原市)の親戚宅へ逃れたが、駆け付けた逸江さんを待たず、14日に逝った。

 下村さんは逸江さんたちと再会できないまま終戦を迎え、父が働く長野へ。ようやく住まいが定まった1年後、はがきで消息を知らせた。千枝子さんの死を知らせた返信に、母は最後の願いも記していた。

  「あなただけは何時(いつ)までも可哀(かわい)がってやって下さいね」「焼(やけ)残りのおばさんより おなつかしい喬様」
 下村さんは機械設計などの仕事をしながら30代で結婚。2児に恵まれた。50年以上を共にした妻に広島の記憶は語らなかった。4年前に妻をみとり、今は病院の付属施設で暮らす。

 毎年、8月6日が近づくと手紙を見返し、やり場のない思いにさいなまれた。老い先を意識し昨年10月、原爆資料館(中区)に寄贈した。私信を勝手に公にすることにためらいはあったが「原爆がもたらした悲劇を知る助けにしてほしい」と願う。

 今、下村さんは思う。「忘れない、という約束だけは果たせたでしょうか」

(2019年8月4日朝刊掲載)

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