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遺品 無言の証人

母の骨つぼになった茶釜

愛用品 家族を追憶

  母ヨシノさんが愛用していた茶釜。自宅の焼け跡で見つけ、母の遺骨を入れて運んだ=2000年、境正昭さん寄贈(撮影・田中慎二)

 表面を覆う鉄さびが、74年という年月を物語る。境正昭さん(当時17歳)が、幟町(現広島市中区)の自宅の焼け跡でこの茶釜を掘り出した。愛用していた母ヨシノさん(当時41歳)の遺骨も拾い、骨つぼ代わりにして持ち帰ったという。

 1945年8月6日、広島市立工業専門学校(現広島大工学部)の1年生だった境さんは東雲町(現南区)の学校で被爆した。すぐに自宅へ戻ろうとしたが、市街地の火災に阻まれたため学校へ引き返し、翌日、自宅跡にたどり着く。

 爆心地から約1・1キロにある幟町地区一帯は火の海となり、境さんの家も焼け落ちていた。自宅にいたヨシノさんは家屋の下敷きになって逃げ遅れたのだろう。広島女学院高等女学校(現広島女学院中高)に通っていた妹の澄子さんとみち子さんは学徒動員先で被爆し、遺骨すら見つかっていない。

 戦後、故郷の長崎市で暮らしていた境さん。母や妹たちの思い出が詰まった形見を手放すことはなかった。しかし、老い先を考え後世に残そうと思い立ったのだろうか。73歳になる2000年10月、広島の原爆資料館を訪れ、ヨシノさんの変死者検視調書など6点を託した。翌月、この茶釜も寄贈した。(桑島美帆)

(2019年8月5日朝刊掲載)

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