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原爆死した家族 生きた証し描く 骨も遺影もない祖母・母・妹 広島の尾崎さん

 被爆後の広島の惨状を「原爆の絵」にしてきた被爆者の尾崎稔さん(87)=広島市南区=が今夏初めて、大手町(現中区)の自宅などで原爆死した祖母、母、妹の肖像画を描いた。骨も遺影もない3人の生きた証しを残そうと、遠い記憶を手繰った。「70余年になるが3人共未だ帰らず」―。水彩画には「行方不明者」と題を付けた。

 祖母の木下マサさん=当時(66)=と母尾崎イツエさん=同(36)=は、かっぽう着姿に。白いブラウスを着た妹幸子さん=同(8)=と、愛犬チロも描いた。「どこで、どのように逝ったか解(わか)らない」と文章も添えた。

 1945年8月6日、修道中2年だった尾崎さんは祖母たち3人と朝食を済ませて学校へ。教師に指示を受けて水泳部の練習に参加するため南千田町へ向かう途中、被爆した。顔や手をやけどして坂町小屋浦の救護所に運ばれ、地元住民の世話で命をつないだ。

 自宅は爆心地から約950メートルだった。いたはずの祖母と妹と犬の行方は分からぬまま。体が回復した秋ごろに焼け跡を掘り返したが、骨一つなく、建物疎開に出た母も見つからなかった。

 残された姉、弟と生きるため、年齢を偽って国鉄で働いた。父の復員後も生活は厳しく、修道中への復学は断念。働きながら高校を出て、運輸業など職を転々としながら懸命に生きた。

 絵を描き始めたのは、現役を退いた後の77歳。孫が使わなくなった絵の具を持ってきた。懐かしい戦前の風景を描くうち、自分が見た惨状も伝えなくてはとの気持ちが募った。必死に逃げる被爆者たち、救護所で「必ず敵を討つ」と叫んで絶命した少年…。この10年で20枚を超えた。

 家族の絵は描けずにいたが、原爆資料館(中区)の学芸員に背中を押され「証しを残すなら今しかない」と思い直した。6月、薄れた記憶だけを頼りに4枚を仕上げた。3人の顔は、どれも当時と違うような気がした。それでも完成した絵を資料館と知人に贈り、1枚は手元に残した。

 8月初め、尾崎さんは中国新聞の求めに応じ、自宅跡に建てられた学校付近を訪れた。被爆の痕跡の多くは消えた。「私は家族の絵を残せたが、広島の地には記憶してくれる人すらいないまま、埋もれた死者がいる。そんな人たちにこそ、思いを寄せてほしい」。被爆74年の夏。家族の肖像画は、数え切れない「行方不明者」にささげる一枚でもある。(明知隼二)

(2019年8月6日朝刊掲載)

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