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弟のシャツ 訴える 原爆資料館に常設展示 坂上さん 悲惨さ 後世に

 広島市立中(現基町高)1年で原爆死した坂上彬(さかのうえ・あきら)さん=当時(12)=が残した1枚のシャツ。焼けた袖、染みた血の跡が74年前の「あの日」の惨事を伝える。4月にリニューアルした原爆資料館本館(中区)で新たに常設展示された。「原爆の悲惨さを必ず後世に」。兄の崇さん(89)=西区=は病身を押して訴える。(明知隼二)

 1945年8月6日、市立中4年だった崇さんは現廿日市市の動員先にいた。強烈な音と爆風、続いて立ち上った黒煙を見て、急いで広島へ。東観音町(現西区)の焼けた自宅跡で両親とは再会したが、建物疎開作業に動員された彬さんの姿はなかった。

 すぐに作業現場の小網町(現中区)に走った。爆心地から約900メートル。男女の判別もつかない黒焦げの遺体ばかりだった。「地獄でもあれほどではない」。己斐方面へ逃げたとの消息に希望をつなぎ、西へ西へと救護所を捜し歩いた。9日、大野陸軍病院(現廿日市市)で弟を見つけた。

 左腕にひどいやけどをしていたが、意識ははっきりしていた。兄に気付き笑顔を見せると「逃げる途中でもらったトマトがおいしかった」と何度も話した。安心してすぐ自宅に戻り、入れ替わりに母が病院へ。しかし同日夜に容体が急変。帰らぬ人となった。残された血染めのシャツには、逃げる弟の口を潤したトマトの汁が残っていた。

 2人兄弟で仲は良かった。両親は戦後、「彬がおったら」とよく口にした。崇さんも「よその兄弟を見るたび、今ならあれくらいの年か」と思い出した。

 シャツは父善作さんが生前、55年に開館した原爆資料館に寄せた。「資料館ならずっと残してくれる」との思いからだったが、常設展示されたとの記録はない。

 一方で、原爆のむごさを証言する被爆者が年々減る中、資料館は今年4月の本館のリニューアルに当たり、被爆した衣類や日用品などの「実物資料」を重視。学徒の遺品を集めた「8月6日の惨状」コーナーが新設され、彬さんのシャツが展示された。同じ動員学徒22人の遺品とともに並び、旧制中学に入ったばかりの生徒の命も容赦なく奪った原爆の非道さを伝える。

 崇さんは3月、前立腺にがんが見つかり、治療を続ける。今年は、欠かさず参列してきた基町高(中区)での6日の慰霊祭を初めて欠席した。それでも自宅で取材に応じ、「戦争だけはいけない。弟のシャツを見れば、それは分かる」と何度も繰り返した。弟の遺品に平和への願いを託す。

(2019年8月7日朝刊掲載)

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