語り継ぐ いつまでも ヒロシマ8・6
19年8月7日
原爆投下から74年を迎えた6日、広島市内は犠牲者を悼み、核兵器のない平和な世界の実現を願う祈りに包まれた。被爆した家族や自身の足跡を訪ねる人、被爆の惨状を継承しようと心新たに誓う若者―。学校や職域など、それぞれの慰霊碑では追悼行事が営まれた。
生き延びた自分がいる証しを確認したかった
平和の重みをかみしめて巡った。山口県遺族代表の金近衛(かねちか・まもる)さん(76)=下松市=は妻芳子さん(72)と平和記念式典に初参列。続いて、西区天満町の生家跡を訪ねた。「年齢的に最後かもしれん。あの惨状から生き延びた自分がいる証しを確認したかった」。後世に伝えるため、自らの足跡と故郷の今を記憶に書き込んだ。
爆心地から西1・2キロの長屋の一角に自宅はあった。今も住宅密集地だが、当時の面影はない。「裏の畑でできたカボチャに喜んでいたらしい。何もなければ天満小に行ったのかな」。母から伝え聞く幼少期に思いをはせた。早朝から大勢の人が集う式典は「毎年テレビで見ており、厳粛な雰囲気だった」という。
自宅で被爆した。当時2歳。窓枠がへしゃげ、家の中が暗かった程度の記憶しかない。父が覆うようにかぶさって下敷きになるのを防いでくれたこと、母が天満川で死んだ魚を捕まえ、家族で空腹を満たしたことを後に聞いた。「悲惨な時を知らないと、今の平和の重要性は理解できないと思う」。ここ数年、遺族代表になるのを願ってきた。
大腸や肝臓などにがんを患い、昨年暮れに転移も見つかった。それでも下松、周南市の小中学生に被爆体験を語り続けている。「世界では平和に逆行する雰囲気もある。見てきたことを思い起こし、元気なうちは平和の重みを伝えていく」(山崎雄一)
福岡県の遺族代表として初めて平和記念式典に参列した小野政江さん(69)=宮若市=は、亡き父が被爆の惨状を伝えようと描いた絵21点の写真を持参した。病で不自由になった手で懸命に描き上げ、平和教育に役立ててほしいと託した父。式典後、父が被爆した陸軍病院江波分院(広島市中区)の跡地周辺を訪ね、遺志を継ぐ決意を新たにした。
父の神谷(こうや)一雄さんは原爆投下時20歳。チフス保菌者だったため入院していた。けがはなく、市内で約1週間、救護活動に当たった。絵の大半はその際の光景。全裸で血をにじませ、はいはいしながら息絶えた乳児、倒れた柱の下敷きになった人と助けようとした人の真っ黒な焼死体…。痛ましい姿が刻まれている。
55歳で国鉄を定年後、絵画教室などで2年弱、水彩画を学んだ神谷さん。1986年に61歳で亡くなる約1年前まで絵筆を握り続けた。19点は同じ構図で2枚ずつ描いた。1枚を広島市の原爆資料館へ贈り、もう1枚を小学校教師の小野さんと弟に託すためだった。
小野さんは住宅街となった分院跡を目にし、「父が見たのはこの辺りで実際にあった光景。忘れてはいけない」。今後も福岡で子どもたちに語り継ぐ活動を続ける。(畑山尚史)
紙芝居で平和の大切さを伝えている府中町の中村由利江さん(68)が6日、平和記念公園(広島市中区)にある原爆の子の像近くで、像のモデルの佐々木禎子さんを描いた紙芝居を上演した。原爆の日に毎年続け、20年目となった今年、府中町内の全中高3校の生徒も参加し、命の尊さを訴えた。
紙芝居は、2歳で被爆し12歳で亡くなった禎子さんの生涯と、像の建立までの物語。多くの人が熱心に見守る中、午前中に安芸府中高と府中中、府中緑ケ丘中の生徒合わせて20人余りが、日本語版と英語版を交互に披露した。初めて参加した同中2年永宗優空(ゆら)さん(13)は「これからも原爆の悲惨さを発信したいと改めて思った」と話した。
午後は中村さんが物語った。「1人で始めた活動が多くの若者に広がり感動している。これからもずっと引き継がれていってほしい」と願った。
(2019年8月7日朝刊掲載)
生家跡訪問 今を記憶 山口代表の金近さん
生き延びた自分がいる証しを確認したかった
平和の重みをかみしめて巡った。山口県遺族代表の金近衛(かねちか・まもる)さん(76)=下松市=は妻芳子さん(72)と平和記念式典に初参列。続いて、西区天満町の生家跡を訪ねた。「年齢的に最後かもしれん。あの惨状から生き延びた自分がいる証しを確認したかった」。後世に伝えるため、自らの足跡と故郷の今を記憶に書き込んだ。
爆心地から西1・2キロの長屋の一角に自宅はあった。今も住宅密集地だが、当時の面影はない。「裏の畑でできたカボチャに喜んでいたらしい。何もなければ天満小に行ったのかな」。母から伝え聞く幼少期に思いをはせた。早朝から大勢の人が集う式典は「毎年テレビで見ており、厳粛な雰囲気だった」という。
自宅で被爆した。当時2歳。窓枠がへしゃげ、家の中が暗かった程度の記憶しかない。父が覆うようにかぶさって下敷きになるのを防いでくれたこと、母が天満川で死んだ魚を捕まえ、家族で空腹を満たしたことを後に聞いた。「悲惨な時を知らないと、今の平和の重要性は理解できないと思う」。ここ数年、遺族代表になるのを願ってきた。
大腸や肝臓などにがんを患い、昨年暮れに転移も見つかった。それでも下松、周南市の小中学生に被爆体験を語り続けている。「世界では平和に逆行する雰囲気もある。見てきたことを思い起こし、元気なうちは平和の重みを伝えていく」(山崎雄一)
父から託された惨状の絵 福岡代表の小野さん
福岡県の遺族代表として初めて平和記念式典に参列した小野政江さん(69)=宮若市=は、亡き父が被爆の惨状を伝えようと描いた絵21点の写真を持参した。病で不自由になった手で懸命に描き上げ、平和教育に役立ててほしいと託した父。式典後、父が被爆した陸軍病院江波分院(広島市中区)の跡地周辺を訪ね、遺志を継ぐ決意を新たにした。
父の神谷(こうや)一雄さんは原爆投下時20歳。チフス保菌者だったため入院していた。けがはなく、市内で約1週間、救護活動に当たった。絵の大半はその際の光景。全裸で血をにじませ、はいはいしながら息絶えた乳児、倒れた柱の下敷きになった人と助けようとした人の真っ黒な焼死体…。痛ましい姿が刻まれている。
55歳で国鉄を定年後、絵画教室などで2年弱、水彩画を学んだ神谷さん。1986年に61歳で亡くなる約1年前まで絵筆を握り続けた。19点は同じ構図で2枚ずつ描いた。1枚を広島市の原爆資料館へ贈り、もう1枚を小学校教師の小野さんと弟に託すためだった。
小野さんは住宅街となった分院跡を目にし、「父が見たのはこの辺りで実際にあった光景。忘れてはいけない」。今後も福岡で子どもたちに語り継ぐ活動を続ける。(畑山尚史)
中高生と一緒に禎子さん紙芝居 府中町の中村さん
紙芝居で平和の大切さを伝えている府中町の中村由利江さん(68)が6日、平和記念公園(広島市中区)にある原爆の子の像近くで、像のモデルの佐々木禎子さんを描いた紙芝居を上演した。原爆の日に毎年続け、20年目となった今年、府中町内の全中高3校の生徒も参加し、命の尊さを訴えた。
紙芝居は、2歳で被爆し12歳で亡くなった禎子さんの生涯と、像の建立までの物語。多くの人が熱心に見守る中、午前中に安芸府中高と府中中、府中緑ケ丘中の生徒合わせて20人余りが、日本語版と英語版を交互に披露した。初めて参加した同中2年永宗優空(ゆら)さん(13)は「これからも原爆の悲惨さを発信したいと改めて思った」と話した。
午後は中村さんが物語った。「1人で始めた活動が多くの若者に広がり感動している。これからもずっと引き継がれていってほしい」と願った。
(2019年8月7日朝刊掲載)