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各地で慰霊祭 ヒロシマ8・6

核では何も解決しない/悲劇伝え続けなくては

  ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 広島戦災供養会が原爆供養塔前で開き、被爆者や遺族の計約350人が参列。遺族代表2人が献花した。中区の佐藤真一さん(87)は、父真治さんが爆心地から300メートル余りの明治生命広島支店で被爆死した。佐藤さんは米国とロシアの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効するなど、緊迫した世界情勢を懸念する。「核兵器では何も解決しないことを日本が訴えていかなければ」と強調した。

  ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(中区中島町)
 広島二中(現観音高)の碑前では約200人が見守る中、生徒会長を務める2年高坂朱里さん(17)が「悲劇を令和の時代に伝え続けなくてはいけない」と決意を述べた。当時2年だった橋本赳夫さん(87)=東区=は同級生9人を亡くした。たまたま登校していた友人は校舎の下敷きに。「生き残った後ろめたさが今もある。若い人は平和の大切さを伝えるメッセンジャーになってほしい」と語った。

  ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族たち166人が県庁跡そばの慰霊碑前に集まり、花をささげた。犠牲者は1142人。安芸区の上松敏郎さん(89)の父光雄さん=当時(52)=は、庁舎内にいたとみられる。5日朝の出勤時が最後の姿になった。「『人に親切にせえ、自分に返ってこんでも腹を立てるな』と言う人で、遺言のように思っている。いろんなことを教えてもらった」と亡き父を思い起こした。

  ◆広島女子高等師範学校、付属山中高等女学校、県立第二高等女学校合同慰霊祭(中区国泰寺町)
 荒神堂境内の慰霊碑前に約80人が集まった。西区の岸本トシ子さん(89)は慰霊碑に向かい、「ふうちゃん」と涙を流した。妹の西方フジ子さん=当時(13)=は山中高女2年の時、雑魚場町(現中区国泰寺町)で建物疎開中に被爆した。岸本さんが翌日、全身やけどのフジ子さんを矢賀付近の救護小屋で見つけたが、間もなく息を引き取った。「参列できるのは最後かもしれない。ひどい戦争だった」

  ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 職員たち約240人が慰霊碑に黙とう。古川善也院長(64)は「被爆者の方は今も後遺症に苦しんでいる。高齢化していく被爆者に最適な医療を提供していく」と誓った。当時、病院の救護看護婦養成部2年で、自身も左足を骨折しながら負傷者を手当てした竹島直枝さん(91)=中区=は「皮膚がめくれあがった人が並ぶ光景が目に焼き付いている。原爆は使ってはいけない」と話した。

  ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 職員や遺族たち約70人が慰霊碑のある多聞院に集まり、亡くなった288人に祈りをささげた。小雨が降る中、午前8時15分に黙とう。参列者全員が焼香した。出勤途中だった父福原時次郎さん=当時(30)=を亡くした不二雄さん(74)=南区=は「顔も覚えていない。写真だけが遺品。二度と私のような悲しい思いをする人が出ないよう、最後の被爆者世代として平和を願う」と力を込めた。

  ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員約80人が慰霊碑前で黙とうした。東広島市の畑野一雄さん(90)は、原爆投下から2日後、父好雄さん=当時(44)=を広島市内で見つけた。顔にガラスが刺さり、血まみれで座り込んでいた。手押し車に乗せ、西条町(現東広島市)の実家に連れて帰ったが、約2週間後に亡くなった。「6人の子どものために必死で生きようとしていた。安らかに眠ってほしい」

  ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前で、遺族や職員計約70人が黙とうした。堺市の主婦三宅敏子さん(71)は、中国四国土木出張所(現中国地方整備局)で事務の手伝いをしていた母方の叔母、辻本元枝さん=当時(14)=が観音町の自宅で被爆。焼け跡から遺骨が見つかった。「見つかった時は、熱で遺骨がまだくすぶっていたという母の話は胸が詰まる。体の許す限り、毎年ここに来たい」と話した。

  ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 平和大通り南側の緑地帯にある碑は、支部の前身の組織が1965年に建立した。碑前には加盟10社の社員や代理店の関係者ら約300人が集った。犠牲者89人を悼み、各社の代表者たちが献花。原爆投下時刻には全員で黙とうした。同支部の鳥羽俊夫委員長(南区)は「忘れてはいけない特別な日。安心で平和な暮らしを下支えする損害保険会社の役割をしっかりと果たしていきたい」と誓った。

  ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の会員約80人が、母子像の前で黙とうした後「原爆を許すまじ」を歌った。初めて参加した中区の田川敏子さん(70)は、夫の両親が爆心地の約1キロ圏で被爆。上半身にやけどを負ったり、歯や髪が抜けたりした。田川さんは8月6日が誕生日。「特別な思いを感じずにはいられない。核兵器廃絶、世界平和への願いを込めて声を上げ続けたい」と力を込めた。

  ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(中区中島町)
 市立造船工業学校の生徒遺族や、流れをくむ市立広島商業高生ら約100人が参列した。在校生の3年竹下咲音さん(18)が「『愛』は平和や核兵器廃絶を考えるキーワード。自分を愛し、他の人も愛することが平和につながる」とあいさつ。姉妹校の長崎市立長崎商業高3年水田ゆめ乃さん(17)と一緒に「核兵器廃絶の声を世界に伝える」と宣言した。参列者は本川沿いの慰霊碑に次々に献花した。

  ◆広島大付属中・高校原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 前身となる広島高等師範学校付属中の犠牲者を追悼し、在校生や卒業生、当時の生徒など計約400人が参列。敷地内の慰霊碑に花と千羽鶴を手向けた。高校1年小桜優実さん(15)=安佐南区=は、展示が一新された原爆資料館本館を7月に訪れ、平和について真剣に考えるようになった。「私たちの世代が『あの日』をしっかり学び、忘れないことが平和の第一歩になる」とうなずいた。

  ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆死没者追悼式典(平和記念公園)
 遺族や犠牲になった学校の在校生たち約250人が、原爆ドーム南隣の慰霊塔の前に集まった。南区の松浦利行さん(75)は、下級生の建物疎開作業を引率していた安田高等女学校3年の姉須美子さん=当時(15)=を失った。「朝、皆実町の自宅を出たまま骨も見つからない。生きていれば一緒に楽しい時間が過ごせたのに」と無念さをにじませた。「戦争、核兵器は絶対なくさなくてはいけない」

参列できるのは最後かも/憎しみ一生消えない

  ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 流れをくむ皆実高の関係者や遺族たち約300人が慰霊碑に献花。生徒会長の2年小笠原穂果さん(16)が「戦争に向き合い、平和をつくる勇気を持つ」と誓った。中区の古田恵子さん(79)は、姉弘子さん=当時(11)=が小網町で建物疎開中に被爆し、翌日亡くなった。古田さんは「8月5日の私の誕生日に、お下がりの服をくれた優しい姉の顔が今も浮かぶ。原爆への憎しみは一生消えない」と語った。

  ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校(現舟入高)の卒業生や遺族たち計約400人が、平和大橋西詰め近くの慰霊碑前で黙とうした。舟入高吹奏楽部の伴奏で、新旧両校の校歌を歌い、慰霊碑に花を手向けた。司会を務めた2年上田舞さん(16)は「当時を知る先輩の多くが亡くなり、悲惨な記憶を語り継ぐ人も減っている。在校生として、原爆の歴史を風化させない責任がある」と強調した。

  ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区西白島町)
 流れをくむ基町高内の慰霊碑に、当時の生徒や遺族、在校生たち約400人が花を手向けた。西区の田頭正幸さん(68)の叔父、貯蔵(ちよぞう)さんは当時2年。小網町での建物疎開中に亡くなった。火葬された遺骨は福島町の寺で見つかった。慰霊祭には、小学2年と年長の孫と参列した田頭さん。「叔父のことを詳しく聞ける同級生も少なくなっている。孫に原爆の恐ろしさを少しずつ伝えていきたい」と話した。

  ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族や大学関係者約100人が追悼碑前で黙とうした。「広島大学五十年史」の編さん時、遺族に取材した同大「森戸国際高等教育学院」の小宮山道夫准教授(48)=日本教育史=は「74年前の『あの日』に向き合える大切な日。被爆者や遺族がどんな思いで生きてきたかを考えた」と語った。「被爆直後の空気感やにおいなど、言葉で伝わらない当時の様子をどう伝えていくかが課題」と指摘した。

  ◆県被団協(坪井直理事長)原爆死没者追悼慰霊式典(中区基町)
 会員や遺族約130人が犠牲者を悼んだ。欠席した坪井理事長(94)は「原爆死は当日のみならず、いまだに続いています」と言葉を寄せた。安芸太田町の河野千鶴枝さん(89)は当時、広島実践高等女学校(現広島修道大ひろしま協創中・高)の4年。学徒動員先の舟入川口町で被爆した。「顔や腕にガラスが刺さった傷痕が残る。当時の光景を思い出すと今でも苦しい」と涙を浮かべた。

  ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 新聞社と通信社の社員を悼む碑に、遺族や労組関係者たち約50人が集まった。東区の会社員桑原秀夫さん(61)は、中国新聞社の社員で、水主町一帯(現中区)で建物疎開中に被爆死した伯母玉枝さん=当時(20)=を追悼した。2012年に父が亡くなって以来、毎年参列する。「伯母は遺体も見つからなかった。ここに来るのは遺族の務め。新聞は被爆体験や戦争の愚かさを発信し続けて」と願った。

(2019年8月7日朝刊掲載)

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