×

ニュース

ヒロシマ 学んで40年 被爆者の話 生きる力育む 大阪の布忍小

 広島市には昨年度、全国から32万人余りの小中高生が修学旅行で訪れた。毎年変わらず被爆地に足を運ぶ学校もあり、大阪府の松原市立布忍(ぬのせ)小は今夏、40年連続で被爆者の体験証言に耳を傾けた。広島市は「2025年度に35万人」を目指し、誘致に力を入れる。(金崎由美)

 「平和な世界をつくるため行動してほしい。皆さんに被爆者からバトンを渡したい」。中区内の会議室で、豊永恵三郎さん(83)=安芸区=が6年生18人に語り掛けた。母が大やけどを負って自身も9歳で入市被爆したことや、日本が植民地支配していた朝鮮半島の出身者も原爆の犠牲になったことを語った。熱心にメモを取っていた大西雛花(ひなか)さん(11)は「原爆は怖い。平和のため学校で友達と仲良くしたい」と話した。

 同校の修学旅行のきっかけは、親族13人を失い、原爆供養塔の清掃活動を続けながら体験を語った故佐伯敏子さんだという。東京・上平井中の元教諭で、他校の修学旅行を全力で支援したことで知られる故江口保さんが橋渡しした。

 1980年代から被爆証言を続ける豊永さんにとって、同小は修学旅行の「最古参」。大西亮一教頭は「旅行後、毎日の態度が明らかに前向きになる子が必ずいる」と話す。さまざまな事情を抱える子どもが、幾多の困難を乗り越えてきた被爆者と触れ合うことで共感し、生きる力を得るという。修学旅行の意義は、原爆被害を直接学ぶことにとどまらない。

 広島からの平和学習と修学旅行の呼び掛けは、69年に広島県教組の教師らで結成した「県原爆被爆教師の会」(現「教職員の会」)や広島平和教育研究所が先駆けだった。75年に山陽新幹線が広島でも開通して東京方面からのアクセスが容易になり、米国と旧ソ連の核軍拡競争に対する反核運動は80年代にかけて空前のうねりとなった。原爆資料館を訪れた修学旅行生は、79年度の32万人から増え続け、85年度には最多の57万人を記録した。

 しかしその後は減少傾向に転じ、2007年には30万人を割り込む。少子化や修学旅行先の多様化などに加え、県原爆被爆教職員の会の江種祐司会長(91)=府中町=は「98年の旧文部省による広島県教委への『是正指導』をきっかけに、県外からの修学旅行も足が遠のいていった」と話す。「それでも広島に来続けた学校は多い。教師たちの意欲にも応えたい」

 切明千枝子さん(89)=安佐南区=は70年代末に江口さんと出会って説得され、布忍小児童の前に立ったのが修学旅行生への初めての体験証言だった。「わが子を亡くした母の切なる証言が多い時代だった。少し若い私の世代も、もう90歳代。被爆者は確実に少なくなっていく」。広島市が若い世代を養成する「被爆体験伝承者」にも期待を寄せながら「今、一人でも多くに語っておきたい」と力を込める。

 修学旅行の誘致を展開する広島市の亀本健介観光プロモーション担当課長は「各校の担当教諭が中学や高校の頃に修学旅行で広島を訪れていると、熱心になってくれる傾向がある」とし、誘致活動は将来への布石にもなると考えている。

(2019年8月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ