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豪雨被災自宅 被爆時のメモ 呉の羽根さん「記憶後世に」

宇品港が見える無残な有様/負傷者 廊下にまで寝ている

 呉市天応南町の羽根玉江さん(88)が、西日本豪雨で被災して取り壊した自宅から、原爆投下後の広島市で被爆者を看護した様子を記した自身のメモを見つけた。呉市で犠牲者が出た豪雨災害も経て「悲惨な記憶を、後世に伝えていかなくてはいけない」との思いを強くしている。(見田崇志)

 メモは、入市被爆者として被爆者健康手帳を申請するため下書き用に書いた便箋4枚。西条町(東広島市)に在住し、賀茂高等女学校(現賀茂高)3年生の14歳だった被爆当時の様子を、約60年前につづったものとみられるという。

 1945年8月6日、立ち上るきのこ雲を自宅から遠望したという羽根さん。17~23日に救護所となっていた大河国民学校(広島市南区、現大河小)で、同級生約40人と看護に当たった。メモでは、広島駅に降り立った時の光景を「宇品港が見える無残な有様(ありさま)」「一同ぼうぜんとして、一しゅん、言葉も出ない程でした」と記す。

 約120人が収容されていたという学校は、負傷した被爆者が教室に入りきれず、「廊下にまで寝ている様(よう)な状態」と描写。炊き出しや外来患者の消毒、包帯の洗濯などをするなか、連日亡くなる被爆者を「安置室(の教室)に運ぶこと」が一番怖かった、と回顧している。遺体が運動場の隅で火葬されたことも書き留めている。

 当時について、羽根さんは「毎日が必死。別の世界にいるようで、けが人と話すことも考えられなかった。今だったら何か声を掛けられたかもしれない」と振り返る。

 メモは、木造2階の自宅の1階押し入れに保管していた。豪雨で半壊し、家は取り壊したが、メモは被災を免れた。向かいの娘夫婦が住む家に移り、荷物を整理していた8月に見つけた。「命があるのはありがたい」と感じる日々。「こういう犠牲を経て、今の世の中があることを忘れてはいけない」と訴えている。

(2019年9月10日朝刊掲載)

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