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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 東海村臨界事故20年

■論説主幹 宮崎智三

安全最優先 今も言葉だけか

 20年前の9月30日、茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で臨界事故が起きた。600人を超す周辺住民らが被曝(ひばく)を強いられた。その一人、現場から300メートル足らずの所で縫製会社を経営していた宮本丈夫さん(70)は話す。

 「事故が起きた当時は『想定外』と言われ、私たち住民もそう信じていた。しかし実際は違うんじゃないか。福島で原発事故が起きてから、そう思うようになった」

 原子力の専門家には事故は織り込み済みではなかったかという。サツマイモしか取れないような寒村だった東海村がなぜ、「原子力の街」になったのか。もし事故が起きても遠く離れた東京までは影響は及ばないから、というわけだ。そんな東京目線で考えると福島も同じだろう。

 臨界事故は、大量のウラン溶液を1カ所に投入したため、核分裂が継続する臨界状態が約20時間続いた。JCO社員3人が大量に被曝し、うち2人が急性放射線症で死亡した。

 原子力の「安全神話」は崩壊したはずだった。しかし12年後、東京電力福島第1原発事故が起きる。なぜ教訓は生かされなかったのか。

 臨界事故では、バケツを用いたJCOの違法な作業や裏マニュアルが問題となった。元東海事業所長らが業務上過失致死罪などに問われ、有罪判決が確定した。しかし燃料製造を発注した旧動燃(現日本原子力研究開発機構=原子力機構)の責任や国のチェックの甘さは免罪された。

 東海村は今月上旬、臨界事故20年を機に原子力安全フォーラムを開いた。何を反省しているのか、事故を取材した一人として聞きに行った。

 事故前の1997年から16年間、村長を務めた村上達也氏は「JCOだけが悪かったのか。臨界事故は英国などで20回以上起きたのに日本では起きないという思い上がりがあった」と原子力業界の過信を批判。さらに事故の背景にあったブレーキなき原子力の推進体制と、規制機関の貧弱さという問題点を指摘した。

 原子力規制委員会の前委員長の田中俊一さんも同調する。臨界事故の時は日本原子力研究所(現原子力機構)東海研究所の副所長として、臨界の収束に尽力した人だ。

 事故の主な原因として、JCOによる許認可条件を無視した操業▽燃料発注者である動燃による無理な要求▽国による安全審査の不備―の三つを挙げた。加えて安全審査体制の不備や、業者の安全意識欠如は、福島の事故にも共通すると強調した。

 フォーラムの最後、山田修村長が決意表明を披露した。<原子力の分野で今強く求められるのは「安全が何よりも優先する」という原点を浸透・追求していくことである>。現状の心もとなさが浮かび上がる。

 現場の声を尊重し、ちょっとした異変に気付いた時に立ち止まることや、それが評価される「文化」を根付かせるべきだと村長は強調する。ただ営利追求を根っこに据える企業が多い中で、どれほど現場の声が大事にされるのか。甚だ疑わしい。

 フォーラムから10日余り過ぎた先週、福島第1原発事故を起こした東電の旧経営陣3人の刑事責任を問う裁判で東京地裁は無罪判決を出した。事故のリスクをゼロに近づけることは求められていなかったとの結論である。改めて思う。安全最優先は今も掛け声にすぎないのか、と。

 原子力産業の中でも原発は特に大量の放射性物質を扱う。たとえ可能性は低くても、ひとたび事故が起きれば広範囲に、しかも長期間にわたって影響を及ぼしてしまう。それだけに安全最優先は当たり前のはずだ。それができないなら、そもそも放射性物質を扱う資格はなかろう。

 にもかかわらず地裁は東電旧経営陣の責任を免罪した。福島への現場検証にも応じなかった地裁の姿勢には、事故がもし起きても被害がこっちに及ばなければいい、といった東京目線を感じてしまう。安全最優先を呼び掛けた、フォーラムでの決意表明は早くも裏切られた。

(2019年9月26日朝刊掲載)

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