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社説・コラム

『潮流』 足の裏の感性

■ヒロシマ平和メディアセンター長 吉原圭介

 通勤のため毎朝のように、平和記念公園を歩いて横断する。暑い日が続くが、公園内の木々は少しずつ黄に色づいてきた。

 「平和記念公園って公園としか考えたことがなかった。歩きながら自分が立っているここに被爆前には町があって、生活していた人がいたと思うと、足の裏の感覚が変わった」

 そう語ったのは関西圏の地方紙の女性記者だ。広島市の「ヒロシマ講座」に参加した全国9紙の若手記者9人のうちの一人。7月下旬から11日間、講師の話を聞いたり、ゆかりの人を取材・執筆したりした。その終盤での感想だった。

 彼らに広島や地元に帰って書いた新聞記事を送ってもらった。2002年度に始まり18回目となったことし、特徴的だったのは4月にリニューアルオープンした原爆資料館の展示についての記事が多かったことだ。同時に、資料館の北側で進む旧中島地区一帯の被爆遺構の発掘調査に触れた記事が目立った。

 関東圏の男性記者は旧中島地区に約4400人が暮らしていたとされることについて連載の初回でクローズアップ。発掘調査について「往事を知る人が少なくなったからこそ、形として残し、伝えなければならない事実がある」と書いた。

 東海圏の男性記者は発掘の理由について「『原爆が落ちた場所は公園だった』との誤解に対し、人々の生活の営みが原爆により吹き飛ばされた悲劇を正確に伝えたいとの市民の思いが背景にある」と説明した。

 もともと平和記念公園は焼け跡に盛り土をして整備された。被爆遺構はそのために残った。市は被爆75年となる来年度から遺構の公開を目指している。この地下60~90センチに、被爆前の生活が埋もれている―。公開された遺構を目にすることで、公園を歩く足裏の感覚がより研ぎ澄まされるかもしれない。

(2019年10月3日朝刊掲載)

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