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幻の被爆映像 5本はどこに

■編集委員 西本雅実

 広島市中区の原爆資料館で今、企画展「廃虚にフィルムを回す」が開かれている。被爆ひと月余り後の惨状を日本映画社が撮った「広島・長崎における原子爆弾の影響」に焦点を当てる。米軍に接収されるなどした受難の軌跡を、製作者らから近年寄せられた資料を基に詳しく紹介している。その貴重な原爆記録映画より早くヒロシマを収めた映像が実はある。「幻の被爆フィルム」を追うと、5本は撮られた公算が大きいことが分かった。それらは今どうなっているのか-。

8月6日 市民が8ミリで撮影 資料館に寄贈後、不明

 1945年8月6日のまさに当日、被爆した市民が8ミリカメラを回していた。撮影者は河崎源次郎さん。1995年に79歳で亡くなっていたが、妻の秀子さん(84)が佐伯区で健在だ。

 「主人は、古田町高須(西区)の自宅で爆発音を聞き、福島町(同)の工場がどうなったのかと向かい、そこの煙突に上がりカメラを回したと話していました」

 缶詰製造会社を営んでいた河崎さんは、若いころから8ミリ愛好家でもあった。被爆の翌年に結婚した妻には「見んでいい」とフィルムをしまっていたが、交際があった広島逓信病院の蜂谷道彦院長(1980年死去)から原爆資料館へ持っていくよう勧められたという。

 資料館の「寄贈申込書」を繰ると、開館8年後の「1963年1月18日」に河崎さんの名前と当時の住所が記載されていた。地下収蔵庫には、爆心地一帯となった中島地区(現平和記念公園)などを河崎さんが1936年に撮った珍しい16ミリフィルムはあったが、「8月6日」は出てこなかった。

 河崎さんによる被爆当日の撮影は、日映社員だった映画評論家の瓜生忠夫さんの著書「戦後日本映画小史」が触れている。「NTVがワイドニュースで放送した」などと言及している。

 その日本テレビに問い合わせると、河崎さんが番組の司会者らと一緒の記念写真からも、放送は1968年5月29日の「NNNワイドニュース」とみられる。だが、当時の生番組のテープは残っていないという。

 河崎さんの長男博さん(61)は、東京での学生時代に「父はスクープといわれて上京してきた」が「被爆当日のフィルムは流れなかった…」と記憶する。秀子さんは「主人が8ミリの返却を資料館に求めると、あれこれ言われた」ともいう。

 米軍占領期の日本映画について近年著された研究書は、被爆当日の8ミリは「戦後日本映画小史」を引用して「占領軍が没収」との推測を重ねる。しかし、これは寄贈時からみて当たらないだろう。

 河崎さんの妻子がもどかしげに話すように、極めて貴重なフィルムを受け取った人物が個人的に保管して行方が分からなくなった、のではないか。「寄贈申込書」の欄外には「8m1本」の走り書きが残っている。

8月8日 日映カメラマン2人、広島入り 「陸軍と米軍が没収」

 「あのフィルムでは広島はまだ燃えていた」

 この証言を残したのは土屋斉さん。大戦中のニュース映画の製作を一手に担っていた国策の日映に同盟通信社から出向し、製作部長を務めていた。「原子爆弾の影響」が米国から旧文部省に返還された翌1968年、広島への「新型爆弾投下」を知り、翌7日に派遣したカメラマンが撮ったフィルムがあるはずと明かした。一報は東京新聞などの同年5月12日付に掲載された。

 記事によると、大阪支社のカメラマンが8日広島入り。「11日ごろ東京に到着」したフィルムを陸軍参謀本部で試写した。「道路に散乱する」「川岸にたくさん浮かんだ」遺体も撮ったプリントは即座に没収され、ネガは進駐してきた米軍に接収されたという。この証言を受け、東京本社の元カメラマンも「8日以後広島市内の撮影をした」と名乗り出ている。

 土屋さんは、日映解散後は郷里の岐阜県で大垣共立銀行頭取などを務め2003年に95歳で死去したが、経済人としての半生を主に語った「時代に挑む」(1999年刊)でも、広島の壊滅直後を収めた映像に言及。「内務省から発表してはいけないと指示され、生フィルムのまま没収された」と述べている。  2人のカメラマンが撮った映像は、占領期に米国へ送られたのではないか。資料館学芸担当者の協力を得て米国立公文書館にメールで問い合わせ、収蔵品データベースを当たったが、現時点では見つけ出せていない。

9月3・5日 日映スタッフ、侍従に同行 NHKとRCC所蔵

 「原子爆彈 廣島市の惨害」の字幕に続き、「地上およそ550メートル(注・最新の研究では600メートル)でさく裂した爆弾は、一瞬にして広島を壊滅せしめた」のナレーションが付く約2分50秒の映像は現存している。日映製作の「日本ニュース第257号」。記録では被爆翌月の9月22日に公開された。現在はNHKが所蔵する。

 昭和天皇が派遣した永積寅彦侍従が広島城跡から廃虚を視察する場面が含まれる。当時の新聞記事と照らすと、「9月3日」の撮影と分かる。

 侍従に同行した日映スタッフがその折に撮ったとみて間違いない約5分45秒の未編集フィルムも現存する。「原爆投下直後実写」と箱書きされた複製が中国放送(RCC)にあることが一昨年分かった。救護病院が設けられた爆心地に近い現在の本川小の校庭で遺体を焼く場面もある。最後のカットに「撮影9月5日」の手書き文字が現れる。

ヒロシマの記録 発掘や公開必要

 上映時間2時間45分の「原子爆弾の影響」は、旧文部省は原版35ミリを複製の16ミリで返還を受けたうえ公開に際して、「人体への影響」編をプライバシーを理由に13分カット。上映は「学術・教育目的に限る」と制約をつけた。

 戦後の日本に返還されても受難を強いられた扱いに、米軍監視の下に映画を完成させた製作者の相原秀次(本名秀二)さんは強く抗議した。「原爆がもたらしたものを知ってほしい」とその後も集めた被爆の記録資料を2005年末に資料館へ託し、3年後に98歳で亡くなった。

 1万点を超す「相原資料」も整理して紹介する企画展(7月15日まで)は、東京の市民団体「平和博物館を創る会」が米国立公文書館から「原子爆弾の影響」を入手して1996年に作った日本語ナレーション版をDVDで上映。映像の一部を今月25日から資料館のサイトに載せて動画発信もしている。

 被爆の惨状を収めた生々しい映像は、若い世代にも戦争・原爆が過去の出来事ではなく未来への警告として感じさせるだろう。未曾有の混乱のうちに撮られた「幻の被爆フィルム」はもっと探されていい。広く公開されるべきだ。

(2009年3月29日朝刊掲載)

 

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