×

連載・特集

法王 被爆地へ <中> 石碑 刻んだ言葉に再び光を 平和願う心受け継ぐ

 来館者でにぎわう原爆資料館(広島市中区)のロビーに、白い大理石の碑がある。「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうこと」。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が1981年2月に広島で語った平和アピールが、日本語と英語で刻まれる。「法王の言葉を残したい思いが結実した」。当時、建立委員会の事務局長を務めた一(はじめ)泰治さん(77)=広島県熊野町=は振り返る。

市民の寄付集め

 委員長に被爆者治療などに尽力した医師の原田東岷氏(99年死去)が就く。原爆詩人の栗原貞子氏や、宗派を超えてキリスト教プロテスタントの広島流川教会の谷本清牧師たち著名人が委員となり、市民に呼び掛けた。委員会の趣旨は「法王の言葉は平和を願ってやまないヒロシマの心そのもの。未来に向けて永遠に残していく義務がある」。550万円を集め、83年の建立に至った。

 一さんは、原田氏のベトナム戦争孤児の支援活動を手伝った縁で関わった。プロテスタント信者で、熊本県出身ゆえ被爆体験もない。それでも平和記念公園を埋めた群衆の中、平和アピールに胸を熱くした一人だった。「普遍的なメッセージだからこそ、皆で共有できた」と話す。

建立訴えた主婦

 最初に碑の建立を訴えたのは、被爆女性の藤枝良枝さん(2001年に83歳で死去)だった。被爆者の思いを伝えようと法王に折り鶴のレイを贈った。「運動の広がりは原田さんの力が大きいが、藤枝さんの純粋な思いがあってこそだった」と一さん。委員22人のうちでただ一人、肩書のない「主婦」として名を連ねた。

 藤枝さんは原爆で、空鞘町(現中区)の自宅にいた母キミヨさん=当時(51)、息子の洋太郎さん=同(4)=と恒男さん=同(2)=を亡くした。73年の手記に、自宅の焼け跡で3人を弔った時の様子を書き残した。「遺骨を一か所に集めて埋めた。きれいな土もかけて、おもちゃの残骸も添えてやった。そして私は一握りの赤い土を紙に包んで大切に持って帰るのだった」

 戦後生まれの息子、正和さん(71)=佐伯区=は「戦争反対はおふくろの生きがいでもあった」と語る。繰り返し被爆を語り、戦争はだめだと言い聞かせる姿が記憶に残る。仕事で忙しかった若い頃はそれほど考えなかったが、自らが家族を持ち、年を重ね、母の切実さが分かってきた。「戦争だけはしてはいけない。おふくろのこの気持ちは、どうか若い人が受け継いでほしい」と続けた。

 碑は法王の言葉に託し、藤枝さんの願いを刻んだ。一さんは修学旅行生たちの碑巡りを案内する際、必ずここを訪ねる。「皆が残すべきだと信じた言葉。きっと中高生の心にも届く」。11月の訪問を機に、再び光が当たることを望む。(明知隼二)

(2019年10月25日朝刊掲載)

法王 被爆地へ <上> 人間のしわざ 平和アピール 今も胸に

法王 被爆地へ <下> 核廃絶の訴え 禁止条約 後押しを期待 保有国・日本に問いを

年別アーカイブ