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社説・コラム

天風録 『「壁」はとっくにないけれど』

 <壁にぶつかって先に進めない感覚、壁の向こうへの憧れ>。それがベルリンっ子である証しだと主人公クヌートはつぶやく。ことしのノーベル文学賞で、その名前が取り沙汰された多和田葉子さんの長編小説「雪の練習生」から▲クヌートはホッキョクグマの赤ちゃんだ。ベルリンの動物園で至れり尽くせり。ミルク欲しさに木箱の内側をひっかくと、飼育員はこう笑い飛ばす。<ははは、君はベルリンの壁を越えようとしているな。でも壁はもうとっくになくなっているよ>▲現実には、壁の崩壊からあすで30年。新聞の大見出しに驚いた日々を思い出す。壁がついえてドイツは一つに▲だが今、かの国では「反移民」を掲げる右派政党が躍進し、寛容を旨としたこれまでの政治体制を揺るがす。最新の調べでは、旧東側市民の半数以上が、旧西側市民より下に扱われていると感じる、と回答した。壁なき分断が立ち現れている証しか▲世界では、さまざまな困難から祖国を逃れる人たちがあまたいる。<生きるということはどうやら外へ出たいという気持ちのことらしい>と小説にはある。生きるため壁を打ち壊した人たちの、思いは静かに息づいていると信じる。

(2019年11月8日朝刊掲載)

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