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連載・特集

外国人神父たちの「8・6」 16人の手記や歩みを追う

「瓦、木材などが数十メートルも舞い上がって飛んで来た」 長束では夕方に80人救護

 広島で外国人神父・修道士16人が被爆していた。米軍投下の原爆を体験したイエズス会神父らの手記から1945年8月6日をみる。それぞれの歩みも追い一覧にまとめた。世界的な男子修道会は1908年に日本に再上陸。大正末期の23年に広島を活動拠点とし、ドイツ管区が宣教師を派遣していた。(西本雅実)

1945年8月6日、広島で被爆したイエズス会外国人神父・修道士はこちら

<幟町教会>

 日本宣教上長ラサール神父が、米ニューヨークで発行される会報誌ジェズイット・ミッションズ46年3月号に寄せた手記はこう始まっていた。「大戦中も毎週土曜日夜はレコード・コンサートを続けていた。8月4日が最後となった」

 「8月6日」の月曜日、幟町教会と司祭館は爆心地の約1・2キロとなる。

 「すさまじい光に続き、天井や床、壁がたちまち崩れ、耳をつんざく音に包まれた」。自室から飛び出したが、飛散したガラス片で全身血まみれだった。

 神学試験に備えていたチースリク神父も自室から脱出した。倒壊の隣家から女性の叫び声を聞き、駆け付けると「日本人のかたを呼んで…」。敵兵と思われた。宣教上長と丸太を持ち上げて救出する。多くの人が「掘り出してくれる者がなかっただけで…火事で焼死したらしい」。日本語で68年に「破壊の日」を著す。

 クラインゾルゲ神父は、司祭館秘書の深井渙二さんを助け、猛火が迫る教会を後にした。重傷のシッファー神父も泉邸(現縮景園)で横たわるが、秘書は行方知れずとなる。

 「瓦、木材、トタン、家具の破片などが数十メートルも高く舞い上がって飛んで来た…実に恐ろしい光景!そして雨が降り出した。黒い雨!」(「破壊の日」)

 火勢が衰えると、チースリク、クラインゾルゲ神父は教会に戻り庭の防空壕(ごう)から米が入った非常袋を取り出す。避難者各自が持ち寄った食糧で夕食を取った。「共通の苦しみは、不思議にも人間の心をつなぐ力を持っている」

<長束修練院>

 爆心地から約4・5キロ、市郊外祇園町の長束修練院(現長束修道院)には、近隣の女子工員や親を求めて泣く子ども、やがて半狂乱の避難者が続いた。「直ちに図書室と談話室を病室に」して「夕方ごろには…80人もの人々を収容」する(アルペ院長の手記。日本では「聖心の使徒」69年7・8月合併号掲載)。

 午後4時ごろ、教会の日本人神学生や幼稚園保母2人が着き、宣教上長らが泉邸にいることを知らせる。

 長束の神父たちは修練院を出て、道端で倒れていた負傷者を見つけ町内の臨時救護所へ運んでいた。しかし、市内へ入るのはためらいも覚えていた。

 「外国人を見ると…スパイだと思って襲いかかってくるのではないか…」。院長を含め「7人」が板きれで作った担架を携えて泉邸に向かった。途中、外国語を聞きつけた将校はサーベルで斬りかかろうとしたという(ジーメス神父が45年9月に書いた手記)。担架で運ばれたラサール神父は夜道の溝に落ちる。金修道士が荷車を見つけ、修練院にたどり着いたのは翌朝4時半であった。

 ジーメス神父は仮眠から目覚めると「感謝のミサをあげ」、一行は再び荷車を押して泉邸に向かう。クラインゾルゲ神父は負傷の母子ととどまっていた。チースリク神父は長束で体を休め翌8日、クラインゾルゲ神父と手分けして信徒の消息を訪ねた。だが2人とも急性放射線障害に陥る。

<三篠修道院>

 爆心地から約2・3キロ。東京から長束に移っていたコップ神父は、ミサを行った楠木町の煉獄(れんごく)援助修道会三篠修道院でシスター7人と被爆した。本部はパリにある同修道会は、大戦中も託児所を続けていた。

 東京にある日本管区の記録によると、日本人2人のほか、フランス出身が3人、イタリア2人、アイルランド1人が広島で活動していた(フランス人院長は祇園町で入院。47年死去)。なぜ抑留を免れていたのかは不明だ。

 今年5月に105歳で逝った伊藤清子シスターは原爆体験記を残した。81年のローマ法王パウロ2世訪問から10年後、「カトリック正義と平和広島協議会」が編んだ手記集に寄せた。

 「コップ師は、首のところからひどい出血をされていた…ご聖体は防空壕に埋めました。さあ、長束の修練院へ行きましょう」。神父についてシスター7人も歩き、正午前に長束へたどり着く。アルペ院長はコップ神父を抱きしめた。

 原爆のやけどを負った避難者を神父・修道士が運んだ布団に寝かせ、傷口をガーゼで覆い薄めたホウ酸水で湿らせる。「終夜交代での看護」に努めた。

 伊藤シスターは、求められれば若者に原爆体験を語り、「平和への種としてはぐくまれて行くことを希望している」と結んでいた。海外出身は2005年までに全員が逝き、被爆シスター唯一の健在者は今月末に神戸で102歳を迎えるという。

(2019年11月12日朝刊掲載)

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