×

ニュース

被爆神父 十字架残す 「あの日」も抑留時も保持 救護の姿 「原爆の絵」に

 広島で被爆したイエズス会のクラウス・ルーメル神父(1916~2011年)が、未曽有の「あの日」も終戦後の抑留の際も保持していた十字架があった。フランツ・J・モール神父(90)が、上智大構内のSJハウス自室で受け継ぐ。原爆資料館が4月から展示する、神父の「被爆日記」を寄贈した盟友でもある。(西本雅実)

 「これはルーメル神父が入会した時にもらったもの。ドイツから一緒に来たわけです」。自室壁に掲げる縦36センチ、横19センチの木製十字架の由来を説いた。故神父とも親しく同席した江島正子さん(79)=東京都新宿区=は「初めて見ました」と手に取った。

 ルーメル神父は18歳で入会し1937年に来日。上智大で日本語を、広島市観音町(現西区)にあった修道院でラテン語と哲学を学んで東京に戻り45年1月、疎開を兼ねて祇園町(安佐南区)の長束修練院へ。7月、司祭に叙階される。

 8月6日原爆さく裂の瞬間は、爆心地から約4・5キロの修練院玄関前にいた。その直後を日本語でこう記した。「火傷した負傷者が非度(ひど)く泣きながら走つて来ます。苦しがつて呻(うめ)き…」

 荷車を押し、体格がよかったロレンツ・ラウレス神父(93年に77歳で死去)が前を引き、重傷者を祇園町の救護所へ運ぶ姿は、すれ違った男性によって後に「原爆の絵」で描かれる。

 夕刻、ルーメル神父らは、幟町教会(中区)で被爆した宣教上長らの救出に向かう。三篠橋近くで家屋の下敷きとなっていた母と娘2人を救出した。夫は死んでいた。「三人の言ふ事、その時の気持忘れられない」

 終戦の翌16日、司祭となって初のミサに臨んだ。「各久(おのおの)の家族に死亡者…荘厳葬式御ミサにして…」。この記述は広島県北・帝釈峡で24日に書かれていた。「警察は軍部の騒乱を恐れて…移動する命令を発した」のだ。

 日本学術振興会特別研究員の四條知恵さん(41)が見つけた長束修練院からローマ本部への報告書によると、県警察部は8月19日にトラック2台を伴い移動を厳命。自由を手にしたのは9月に入ってからだった。

 ルーメル神父は米国留学などを経て上智大で教え要職も務める。広島での被爆が確認された外国人神父14人で最後に亡くなった。晩年になるほど、カトリックやドイツのメディアに体験を語り、核兵器を巡る問題を子どもたちに理解させる教育の必要性を説いた。死去の直前に「被爆日記」の存在を明かした。

 「無期限に公的なものだから広島に贈りました」。盟友モール神父の言葉に江島さんもうなずいた。

(2019年11月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ