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この苦しみ 二度と 被爆地の訴え届けた 被爆者の梶本さん

 「この苦しみを、子どもたちや世界の誰にもさせてはなりません」。被爆者の梶本淑子さん(88)=広島市西区=は、ローマ教皇(法王)フランシスコと約2千人の参列者を前に、自らの被爆体験から紡いだ言葉を伝えた。平和記念公園(中区)での「平和のための集い」。被爆地の訴えを教皇に届ける重責を果たした。(明知隼二、樋口浩二)

 1945年8月6日、爆心地から2・3キロの三篠本町(現西区)のプロペラ部品工場で被爆した。当時は安田高等女学校(現安田女子中高)3年。同級生たちと作業を始めて間もなく、窓に「真っ青な光」が流れたと思った瞬間に建物は倒壊。下敷きになり気を失った。友人の悲鳴で目を覚まし、外にはい出した。

 やけどし皮膚が垂れ下がった人たち、赤く燃える広島の街―。あの日の光景は今も脳裏にある。梶本さんを捜し歩いた父は1年半後に急死し、母も病に苦しんだ。自身は母と弟3人のため、教師の夢を諦め懸命に働いた。結婚して子や孫にも恵まれたが、99年には胃がんを患い手術も受けた。

 被爆については長らく口を閉ざしたが、2001年から被爆証言者として活動を始めた。「原爆がどんなに恐ろしいか。言っても、言っても、言っても分からない」。もどかしさを抱えながらも、修学旅行で訪れる子どもたちに核兵器の非人道性を伝え続ける。

 この日の証言の時間は、急きょ体調不良で欠席し代読となった細川浩史さん(91)=中区=と合わせ、わずか5分。葛藤もあったが、「核は絶対になくしたい」。3分余りの証言で、「平和を願う多くの人の力と亡くなった人の魂により、核は必ず廃絶される」と、核兵器への怒りと廃絶への信念を伝えた。

 集いの終了後、梶本さんはほっとした表情で教皇の印象を振り返った。「私の冷えた手を両手で包んでくれた。何をおっしゃったかは分からなかったけど、とても温かかった」

(2019年11月25日朝刊掲載)

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