[無言の証人] 下宿から持ち出した飯ごう
19年12月16日
水すくい多くの人潤す
多くの被爆者が水を飲むのに使った飯ごうとふた=2015年、谷本太さん寄贈(撮影・高橋洋史)
鈍く光る飯ごうは、爆心地から約2キロの広島市千田町(現中区)で被爆した谷本太さん(97)=大竹市=が倒壊した下宿から持ち出した。ひしゃく代わりに使われ、やけどを負いながら水を求める多くの人々の喉を潤した。
日本製鋼所広島製作所(安芸区)に勤めていた谷本さんは当時22歳。1945年8月6日は休みだった。下宿の2階で被爆し、血まみれになってはい出した。飯ごうの入ったリュックサックとともに近くの広島文理科大(現広島大)グラウンドへ避難した。
手押しポンプの周囲に黒山の人だかりができていた。どの人も服はぼろぼろ…。焼けただれた手で水をすくっても、口に入る量はわずかに見えた。飯ごうを出し、列に並ぶ人にふたを渡した。「これで飲んで」。相手は表情も判別できないほど顔が腫れていた。
被災者が交代でポンプを押し、ふたは次の人に渡した。自分は飯ごうを水で満たし、動けない人たちの元へ何度も往復し飲ませた。一夜明けると、ポンプにはきちんとふたが残っていた。「なくなってもおかしくないのに、みんなで助け合っていた」。涙が出た。
戦後も「多くの人の思いが詰まっている」と手元で保管し続けた。被爆70年の節目に原爆資料館に寄贈したが、あの日の記憶は今も鮮明だ。(山本祐司)
(2019年12月16日朝刊掲載)