『記憶を受け継ぐ』 阿部静子さん 大やけど 差別に屈せず
20年1月14日
阿部静子(あべ・しずこ)さん(92)=広島市南区
証言活動に尽力 平和の種まいた
「原爆でこうなったんじゃ、ということを伝える生き証人」。18歳で被爆し、顔や手に大やけどを負った阿部(旧姓大力)静子さんは原爆で一変した半生をそう振(ふ)り返ります。3人の子を育てながら後遺症や差別を乗り越えて証言を重ね、反核を訴(うった)えてきました。
広島県海田町の農家で育った阿部さんは、安田高等女学校(現安田女子中高)を卒業後、17歳で軍人の三郎さんと結婚しました。当時三郎さんは、旧満州(中国東北部)や南方にいたため、新婚生活は離(はな)ればなれ。そのさなかに「あの日」が来たのです。
1945年8月6日は朝から、義母と暮(く)らしていた中野村(現広島市安芸区)の人たちと平塚町(ひらつかちょう)(現中区東平塚町)で建物疎開作業(たてものそかいさぎょう)をしていました。民家の屋根の上で、瓦(かわら)を運び出していると突然、約10メートル吹(ふ)き飛ばされ、庭にたたきつけられました。
爆心地から1・5キロ。気付くと辺りは薄暗(うすぐら)く、人の体が焼ける嫌(いや)な臭(にお)いがします。右半身に熱線を浴びた阿部さんの顔は腫(は)れ上がり、右腕(みぎうで)は皮膚(ひふ)がずるっとむけて爪(つめ)の先から垂れ下がっていました。手を下ろすと激痛(げきつう)が走るため、胸(むね)の前まで上げ、近所の人と歩いて中野村を目指しました。
船越町(現安芸区)の日本製鋼所の臨時救護所(りんじきゅうごしょ)に3日収容された後、父親と再会し、やっと実家に。自宅に戻った後も、家族が浴衣の布をガーゼ代わりにし、すったジャガイモを患部(かんぶ)に塗(ぬ)ってくれました。次第にやけどの痕(あと)がケロイド状に盛(も)り上がり、口はゆがんだまま。右手の指は反った状態で固まり、日常生活がままならない状態でした。
同年末に復員した三郎さんは周囲の離婚(りこん)の勧(すす)めを拒絶(きょぜつ)し、連れ添(そ)うことを決意しました。阿部さんは翌年、長男の妊娠(にんしん)を機に半年間入院して皮膚の移植手術を受けました。11月に長男を出産、49年に次男、54年に長女も生まれます。
夫の愛情に支えられる一方で、外を歩けば「赤鬼が通る」とはやし立てられました。息子は学校で「ピカの子」といじめられ、人目を避けて山道を帰ってきたことも。「いつもうつむいて生活し、子どもと泣いた。何度死にたいと思ったか…」
一歩踏み出す勇気をもたらしたのは被爆者仲間の存在でした。後に「原爆1号」と呼ばれた故吉川清さんが原爆ドーム前に建てたバラックに集まって悩(なや)みを分かち合い、初期の被爆者援護運動(ひばくしゃえんごうんどう)にも深く関わります。56年に6歳だった次男を連れて被爆者援護を求める国会請願(こっかいせいがん)に参加。「悲しみに 苦しみに 笑いを遠く忘れた被災者の上に 午前10時のひざしのような あたたかい手を…」とつづった詩は歌となり、反核集会などで合唱されました。
64年には、米国の平和活動家故バーバラ・レイノルズさんたちが企画した「平和巡礼」に加わり約3カ月間、欧米やソ連を訪れて体験を語ったほか、原爆投下を命令したトルーマン元大統領とも面会しています。米国人の優しさにも触(ふ)れ、それまで抱いた憎(にく)しみは消えていったといいます。
「私のような苦しみを味わってほしくない」という一心で続けた証言活動は、約7年前に引退し、高齢者施設で暮らしています。「平和の種をまいてきた」と感じると同時に、米トランプ政権と、追随(ついずい)する日本政府に怒(いか)りを禁じ得ません。「原爆でもあれだけの被害があった。次に使われたら地球はおしまい。どんなに平和が大事か。核兵器使用反対、持つこと反対。常にその声を発してほしい」―。被爆75年を迎(むか)える今、思いはさらに強くなっています。(桑島美帆)
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私たち10代の感想
思いやりの心 常に意識
若いころ阿部さんはひどい差別に苦しみ、町を歩くと「赤鬼が通る」と言われたそうです。私だったら家に引きこもり、生きる勇気をなくすと思います。「優しい心や表情で人と接して」という阿部さんの言葉から、思いやりの心を持って行動すれば、小さな平和の輪が広がることが分かりました。友達や家族にそういうふうに接していこうと思っています。(高1柚木優里奈)
活動の「花」 咲かせたい
阿部さんは反核運動や証言活動を花に例え「まいた種が少しずつ育った」と力を込めます。しかし国の指導者が口先だけで「平和」を唱え、軍縮を進めなければ育った芽も枯れてしまいます。「生き残った者として使命を果たそう」と、つらい被爆体験を語り続けた阿部さんの思いを胸に、自分の言葉で平和の尊さを伝え、花を咲かせていきたいです。(中3岡島由奈)
平和の大切さ世界へ発信
「平和がどれだけ大切か。皆さんで守り続けて」と阿部さんは言われました。私ができることは、大きな目標を立てるだけでなく、SNSなどを利用し、ヒロシマのことや平和の大切さを世界へ発信することです。そのために、今の広島の様子や被爆体験、被爆資料を正確に学び、発信することが必要です。一つ一つ投稿を積み重ねたいと思います。(中3桂一葉)
(2020年1月13日朝刊掲載)