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記念碑 被爆捕虜に光 来春 長崎に設置へ オランダの遺族ら 平和や友好訴え

 第2次世界大戦中に旧日本軍に捕らえられ、長崎市内にあった「福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所」で被爆したオランダ兵捕虜の遺族たちが、同市内に記念碑を建てる計画を進めている。過酷な生活と労働の末に被爆した連合軍捕虜たちの存在を歴史に刻み、平和や友好の大切さを広めたいという。(桑島美帆)

 活動の中心はオランダ在住のロブ・スハウテンさん(61)。記念碑は鉄製で、兵士が身に着けていた認識票と、折り鶴がモチーフになる予定だ。長崎市内の支援者を通じて同市にも協力を求め、来年春の設置を目指し用地選定を進めている。

 長崎で被爆死したオランダ兵の遺族探しを続ける被爆者森重昭さん(82)=広島市西区=が資料提供などで協力しており、「生きて帰った捕虜も、被爆の後遺症に苦しみ続けた。その事実を広く知ってもらえる」と期待を寄せている。

 スハウテンさんの父エバーハードさん(2012年に90歳で死去)は、オランダ領東インド(現インドネシア)の生まれ。1943年春に日本軍の捕虜となり長崎へ移送された。2年後の8月9日に被爆。戦後はオランダに住んだ。

 15歳の時に初めて体験を聞かされたというスハウテンさんは「世界で最も悲惨な兵器の被害を目撃していたと知り衝撃を受けた」。元捕虜の被爆者で、仲間を追悼する記念碑の実現を願っていたウィリー・ブッヘルさんたちと5年前に「プロジェクト・ナガサキ2020」を結成。ブッヘルさんは昨年7月に99歳で亡くなり、スハウテンさんらメンバー約10人がその遺志を継いで活動している。

 第14分所は、43年4月に三菱重工幸町工場の敷地内に設置された。爆心地から1・7キロでオランダ兵7人と英国兵1人が犠牲になり、30~50人が負傷したとされる。旧日本軍の戦争捕虜の実態を調査している市民団体「POW研究会」(東京)によると、終戦時はオーストラリア兵を含めて連合軍捕虜195人が収容されていたとみられる。

 旧日本軍は戦争中、インドネシアやシンガポールなど各地で連合軍捕虜を収容し、42年以降は日本国内の収容所に移送。三次など約130カ所に3万人以上の捕虜が収容され、労務動員されたという。

 記念碑の建立費用は約6万3千ユーロ(780万円相当)。オランダの行政機関や民間団体から補助金を得るほか、クラウドファンディングのサイト( www.whydonate.nl/fundraising/monument‐pow‐kamp‐fukuoka‐14)で資金を募っている。

 プロジェクトに加わる現地在住の綿貫葉子さん(60)は「オランダでは日本に対する複雑な感情が残っている。記念碑が和解につながってほしい」と力を込める。スハウテンさんは「苦しい人生を歩んだ捕虜の存在を、世界は忘れないで」と協力を呼び掛けている。

(2020年1月20日朝刊掲載)

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