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大久野島毒ガス資料館初代館長 村上さんの遺志継承誓う 竹原で偲ぶ会 

 竹原市沖の大久野島とともに生き、昨年10月27日に87歳で亡くなった毒ガス資料館初代館長の村上初一さん=同市忠海床浦。島の旧軍毒ガス製造工場で働いた少年期の体験を語り、館長退任後は市民団体「毒ガス島歴史研究所」を設立して加害の歴史を伝え続けた。同研究所が先月、島で偲(しの)ぶ会を開き、遺志を継ぐ決意を新たにした。

 「戦争は、被害者にも加害者にもなってしまう。再び、次の世代に間違いを起こさせてはならない」。病床で声を振り絞る姿を、研究所代表の山内静代さん(64)=同市=が追悼の辞で振り返った。

 参加者28人は村上さんと歩み、学んできた仲間や家族。柔和な表情にも眼光は鋭く、淡々と信念を説いた在りし日を思い出した。

 軍国少年だった村上さんは1940(昭和15)年4月、14歳で同島の陸軍技能者養成所に入る。「明るい夢と希望を抱いた」と、自著「毒ガス島と少年」に記す。「化学兵器は人道兵器」との教えを信じ、毒ガス製造の一端を担った。振り返れば「真実は何も知らされずに戦争に巻き込まれた」一人だった。

 戦後、忠海町(現竹原市)役場に入り、公害問題などを担当。退職後の88年、市や毒ガス障害者団体が島に開設した毒ガス資料館の初代館長になった。平和学習に訪れる児童生徒に島の歴史や元工員らの苦しみを語り、それを裏付ける資料収集に奔走した。

 ある日、修学旅行の引率教師に「なぜ毒ガス戦について話さないのか」と問われた。自分も加害者だと気付いた、と常々語っていた。旧日本軍が中国大陸で毒ガスを使い、遺棄した実態の解明や被害者支援にも尽くした。

 加害の歴史に向き合った村上さん。96年春、突然の70歳定年導入で辞任。「最後の日は肩を落としていた。でも、信念を貫く、とすぐ再出発した」と妻道子さん(75)。仲間と研究所をつくり、ガイドや証言の収集、遺跡保存などに休む間もなく打ち込んだ。だが、5年ほど前から入退院を繰り返していた。

 学徒として島に渡った岡田黎子さん(83)=三原市=は「孤独な闘いの中、揺るぐことなく大久野島を加害の島として位置づけ、平和の語り部の生涯を全うされた」と語った。

 山内代表は「村上さんが苦労して充実させた資料館があるからこそ、大久野島の歴史は風化していない」と強調。「自責の念に苦しみながらも、事実を伝える強い使命感。しっかりと引き継ぎたい」と話す。(広田恭祥)

大久野島毒ガス資料館
 竹原市や周辺市町、毒ガス障害者団体でつくる同島毒ガス障害者対策連絡協議会が島南部に建設し、竹原市に寄贈。連絡協の運営で1988年4月開館。旧軍資料や製造器具、元工員らの被害事態、中国での遺棄弾やイラン・イラク戦争関連などの資料約600点がある。2012年度の入館者数は3万6898人。市は06年度から指定管理とし、09年度以降は休暇村大久野島に委託している。

(2013年4月29日朝刊掲載)

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