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連載・特集

継承のかたち 地域でたどる戦後75年 第1部 広工廠 <1> 91歳の同級生

動員時の苦難語り合う

空襲などの体験 手記へ

 呉市広本町の飲食店に毎月、91歳の同級生が集う。太平洋戦争下、1943年に前身の実科学校から改称した市立広高等女学校の卒業生。毎回10人ほどが互いの体調をいたわり合いながら、日本の必勝を信じ、動員学徒として兵器生産などに身をささげた日々を振り返って語り合う。

 広地区は当時、広海軍工廠(こうしょう)、第11海軍航空廠が置かれ、艦艇の機関機器類の製造や航空機生産を担う工場群が並んでいた。呉海軍工廠と並ぶ軍需産業の一大拠点。戦争末期の空襲被害も大きかった。

女性の負担増す

 動員は44年6月に始まった。現在の呉市川尻町から通った福岡都喜子さん(91)は鋳造工場へ。午前7時から午後7時まで働いた。職場の男性は次々に戦地へ赴き、女性の負担は増した。

 「湯が上がったで」。溶けた鉄が取り出せる状態になったという指示が出ると、勺(しゃく)で鋳型に入れる。火の粉が飛び、足をやけどすることも。すぐ固まるので時間はかけられない。人間魚雷「回天」のスクリューや航空機のプロペラになった。「どんな仕事か、家族にも話してはいけなかった」

 他の生徒も、工場に使うれんが造りのため一日中、木づちで石炭灰や土をたたいたり、「極秘」印の書類を封筒に詰めたり。さまざまな仕事を課せられた。敵を撃破したというニュースに気持ちを奮い立たせた。

何度も防空壕に

 最初の空襲は45年3月19日。福冨ミサコさん(91)=広本町=は「低空飛行する艦載機の操縦士の顔が見えた」と振り返る。爆撃と機銃掃射が始まり、防空壕(ごう)へ駆け込んだ。それでも、翌日には建物がトタン板で応急処置され、作業は再開された。

 5月5日、B29爆撃機にによる空襲は激しさを増す。防空壕には、足の踏み場がないほど人が逃げ込んだ。壕のあった山が爆弾の衝撃で揺れ、「いつ砕けるか」と恐怖が募った。翌6日は異例の休みになった。

 終戦で工場での仕事はなくなったが、有場美千子さん(91)=東広島市西条町=は士官や工員の退職金の計算に追われた。連日、長い列ができたため、夜は毛布1枚をもらい、工場で寝泊まりした。骨組みだけの建物から星空が見えた。

 集うのは「あの経験があるから分かり合える仲間」と実感するからこそ。地元の郷土史研究会に協力し、手記などの記録を残す活動を始めた。(見田崇志)

    ◇

 芸南賀茂地域にもさまざまな痕跡を刻む太平洋戦争の終結からことしで75年。体験者の高齢化が進む中、記憶を次代につなごうとする努力も続く。戦艦大和の建造で知られる呉市で、戦災の実態が埋もれがちな広地区に注目するシリーズを手始めに、戦時の地域の姿をたどり、継承の営みを見つめる。

(2020年1月25日朝刊掲載)

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