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東広島の元従軍看護婦渡辺ミチコさん訪中に同行

交流の桜並木 きっと守ってくれる

 「主人の最期の地に行かせて」と従軍を志願した若き日から間もなく70年。東広島市八本松南の保健師渡辺ミチコさん(96)が4月中旬、中国江西省九江市にある総合病院の桜並木を訪ねた。ここは亡き夫ゆかりの地。1988年に苗木を寄贈して以来10回目の訪中だが、「これで最後でしょうね」と。渡辺さんの旅に同行した。(佐田尾信作)

「これで最後ね」 医師らから歓待

 残念ながら今年は散り始めていた。「でも満開の桜は患者さんを和ませます」と人民解放軍一七一病院の李起棟副院長。ドクターヘリを飛ばす近代的な大病院だが、少し小高い桜並木周辺は古いれんが積みの建物が残る。

 かつて苗木千本を贈り、中国の人々と一緒にヤエザクラを植えた。「友あり、遠方より来る」の報にOBの老医師らも駆け付け、招待所の食卓を囲んでしばし旧交を温めた。

 渡辺さんは現在の福山市神辺町生まれ。20歳で嫁いで井原市で新婚生活を送っていた37年10月、夫の音次さんが召集された。陸軍輜重(しちょう)兵として中国戦線を転戦中の41年2月、九江市の陸軍病院で病死。「入営前日も夫婦だけの話はできずじまい。手紙では『もう少し辛抱してくれ』と書き送ってくれたのに…」

 だが嘆き悲しむ日々を、あの時代は許さない。手に職をつけようと単身上京し軍人遺族職業補導所で保健看護を学ぶ。当時の雑誌「婦人朝日」に真剣な表情の白衣姿で写り、「靖国の妻の気魄(きはく)」ともてはやされもした。

 「従軍看護婦」として夫がいた病院を志願。太平洋戦争が敗色濃くなる44年6月、下関から船や汽車で17日かけて九江へ着く。

 「兵隊さんばかりの中に私だけ女でね」。軍隊と同じ行軍の訓練を課されたり、担架搬送中に船内で転落して大けがをしたり。敗戦の翌年までとどまって働く。「無縁仏は悲しい」と手紙につづっていた夫への思いがあればこそ乗り切れた。

 それから四半世紀。72年の日中国交回復の後、今は解放軍の病院に訪問の旨を打診した。最初は門前払い。諦めず働き掛け「病院の庭に土葬された戦没者のために桜を植えたい」と申し出ると、「苗木代を送ってほしい」という。

 だが何事も自分で見届けたい渡辺さんは88年、現地で自ら植樹。今では訪問すれば市人民政府からも歓待される間柄になる。交流の輪は長年会長を務めた「賀茂・東広島地域在宅看護職の会」の仲間にも広がった。

 九江は長江中流域に湖が点在する水運都市で、世界文化遺産の廬山(ろざん)もある景勝地。病院のほかに300本のヤエザクラを植えた甘棠(かんどう)湖畔を訪れ、同行した看護職の女性たちが太極拳をする女性たちと打ち解ける場面も。「桜の恩人」渡辺さんが紹介されると、握手攻めに遭った。

 日中関係は国交回復後最悪の時期を迎えているが、渡辺さんは「私はおっちょこちょいですから」と気にも留めない。きっと誰かが桜並木を守ってくれると信じているから。

(2013年5月2日朝刊掲載)

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