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連載・特集

戦艦大和沈没75年 次代への羅針盤 元乗組員の思い <上> 元信号兵 広一志さん(96)=呉市

犠牲の戦友に誓う平和 「生きている限り、伝え続ける責務」

 「ビルみたいな大きさに圧倒された。乗組員になれるのが誇りでもあった」。戦艦大和の乗組員だった広一志さん(96)=呉市=は、旧日本海軍が建造した当時世界最大の戦艦との初対面を振り返る。

 1940年6月、海軍に入隊。41年8月、船体に装備を施す艤装(ぎそう)中だった大和の乗組員になった。それから2年間、信号兵として乗艦。「世界最大最強の大和の乗組員は世界一優秀でなければならない」と教え込まれ、厳しい訓練の連続だった。

 「寝る、食う以外に楽しみはなかった」。取材の際、広さんが「門外不出」とおもむろに取り出した300ページ超の自伝「夢呆録(むほうろく)」にも、「厳しい規律と味も素っ気もない猛訓練が続くと艦内の空気は、とげとげしくなり普段は見逃されているような少しのミスでも(頰を張られる)ビンタ。毎晩のように海軍伝統の制裁が行われた」とある。

 大和は42年5月、初の実戦となるミッドウェー海戦に向けて岩国市の柱島沖を出撃した。多くの軍艦で構成された陣形の中心は大和。華々しい戦闘に参加したいと思っていた広さんは、大艦隊の壮観ぶりに感激したという。だが、大和は一発も砲弾を放つことなく、海戦は終わった。

 広さんにとって大和での思い出に、山本五十六連合艦隊司令長官とのやりとりがある。エレベーターで上がってきた山本長官から「おまえ誰だ」と問われ、緊張した面持ちで「信号兵であります」と返答した。わずかなやりとりが、自慢の一つでもある。

 「不沈艦」と信じられていた大和は、広さんが下船した後の45年4月、米軍機の波状攻撃を受けて沈没。「一緒に過ごした一人一人の顔が今も頭に浮かぶ。最期に何を思ったのか…」。大和と共に海底に沈んだ戦友に思いをはせる。

 「当時は国のために犠牲となるのが、最高の美徳だと思い込んでいた。間違った方向にいかないようにするためにも教育は非常に重要だ」。その思いを込めて「生きている限り、大和のことを伝え続ける責務がある。後世に伝承し続けてほしい」と語る。

 元乗組員や遺族でつくり、広さんが会長を務める戦艦大和会は、沈没した4月7日に合わせて毎年、呉市の長迫公園(旧呉海軍墓地)にある乗組員の慰霊碑前で追悼式を開く。今年は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて中止せざるを得なくなったが、それでも広さんは7日、慰霊碑に足を運んで手を合わせたいと思っている。

 「多くの犠牲があり、平和に過ごせる現在がある。絶対に忘れてはならない」。その思いが自らを突き動かす。(浜村満大)

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 呉市の呉海軍工廠(こうしょう)で建造された戦艦大和が、鹿児島県沖の海底に没して7日で75年を迎える。日本を象徴する名を冠された戦艦は、その最期も含め、次代を生きる者にどんなメッセージを投げ掛けるのか。元乗組員3人に聞いた。

戦艦大和
 全長263メートル、基準排水量6万5千トン。1937年11月に呉海軍工廠で起工し、太平洋戦争開戦直後の41年12月中旬に完成した。口径46センチと世界最大だった主砲は射程40キロを超えた。45年4月7日、沖縄へ向かう途中の鹿児島県南西沖で米軍機の攻撃を受けて沈没。乗組員3332人のうち3056人が犠牲となった。

(2020年4月7日朝刊掲載)

元乗組員の声 伝承が使命 呉の「大和会」顧問 相原謙次さんに聞く

戦艦大和沈没75年 次代への羅針盤 元乗組員の思い <中> 元軍医 祖父江逸郎さん(99)=名古屋市

戦艦大和沈没75年 次代への羅針盤 元乗組員の思い <下> 元高角砲分隊 西田耕吾さん(98)=和歌山県

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