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戦艦大和沈没75年 次代への羅針盤 元乗組員の思い <中> 元軍医 祖父江逸郎さん(99)=名古屋市

負傷者救えぬ体験 痛恨

「ドラマほど、みんなが勇敢じゃない」

 血で手を真っ赤にしながら、機械的に処置を続けた。「感情を持っていたら仕事にならない」。戦艦大和に軍医として乗り組んだ祖父江(そぶえ)逸郎さん(99)=名古屋市=は、1944年10月のレイテ沖海戦を振り返る。負傷の程度で優先順位を付け、救命の見込みがなければ処置を見送る。自身の心を保つためにも、感情を捨てることを徹底した。

 名古屋帝国大医学部を卒業後、海軍軍医学校を経て戦艦配属を志願し、44年4月に大和の乗組員になった。「他にも大きい船はたくさん係留されていたけど、雰囲気から違った。これが大和かと」。約3千人の乗組員を、3人の軍医と約20人の衛生兵たちで診た。

 軍医に課せられた使命は「一人でも多くの軍人を守り、戦いへと送り返すこと」。戦闘時以外も、ストレスなどで多発した急性虫垂炎や、胃潰瘍、胃がんなどの手術を重ねた。「軍医殿」と呼ばれ、誇りを胸にメスを握り続けた一方、命を救えない体験は痛恨だった。

 乗組員の最期に立ち会うことも軍医の仕事の一つだった。兵士が死ぬと、軍旗で遺体をくるんで水葬する。お経が読まれ、順番に海に落とす。「処置をすればまた兵士は戦闘に向かう」。助けているのか、死に追いやっているのか…。自身もストレスで倒れ、虫垂炎の手術を受けた。

 「一番難しい仕事は、詐病を見極めることだった」とも語る。体調がすぐれない、などと病を偽る兵士が相次いだ。見破ることを正義だと思い込み、自分の目を信じて判断した。「ドラマで描かれるほど、みんなが勇敢じゃない」

 レイテ沖海戦では、艦内の治療所はまさに野戦病院と化した。窓がなく、外の様子は知ることができない。米軍の波状攻撃が始まると、30分おきに血まみれの兵士が大量に運ばれてきた。砲弾の破片は、体の内部をひどく損傷しながら貫く。「どうしてやることもできない」。何度も処置を見送った。

 蒸し風呂のような治療所で、夢中のうちに過ぎた戦闘。甲板に出て、姉妹艦、武蔵が沈みゆく様子を「総員、帽振れ」の掛け声で見送った。一同が静まりかえる中、「不沈艦」などないと悟った。45年1月に辞令で大和を下り、江田島の海軍兵学校の教官に。4月7日に大和が沈んだと知ったのは、数カ月たってからだった。

 祖父江さんは兵学校の調査隊の一員として、原爆が投下された3日後の広島市にも入ったという。人が焼ける臭い、身内を探す人たちの声が記憶によみがえる。戦後75年を迎える今、軍医が見た戦争とは―。「怖くて震える者も、勇敢な者もいた。今と何も変わらない。普通の人たちを壊す、それが戦争」(池本泰尚)

レイテ沖海戦
 1944年10月下旬、フィリピン奪還を目指しレイテ湾に向かった米海軍などを日本海軍が周辺で迎撃した一大海戦。日本は戦艦大和をはじめ連合艦隊の残存戦力を総投入し、神風特別攻撃隊が初めて出撃するなどしたが、米軍上陸を阻止できず、戦局は大きく後退した。

(2020年4月8日朝刊掲載)

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