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「広島の犠牲者に捧げる哀歌」作曲 ペンデレツキさん死去 平和主義 信念の音楽

「人と人 国と国をつなぐ」

 「私は半世紀以上もの間、ヒロシマに思いを寄せてきた」。昨年6月、広島市中区の平和記念公園でインタビューした際の、信念に満ちた口調が思い起こされる。3月29日に86歳で亡くなった現代音楽の作曲家・指揮者のクシシュトフ・ペンデレツキさん。東西冷戦下、ヒロシマを掲げた作品で前衛を切り開き、「平和主義」を貫いた生涯だった。(西村文)

 1933年、映画「シンドラーのリスト」の舞台になったポーランドの古都クラクフから東へ約100キロのデンビツァの出身。幼少期、ナチス占領下で迫害されるユダヤ人たちを目の当たりにした体験が「原点」となった。クラクフ音楽院で作曲を学び、50年代後半から先駆的な作風で頭角を現した。

 61年、「広島の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」でユネスコ国際作曲コンクールのユネスコ賞を受賞。トーン・クラスター(密集音群)の手法を弦楽器に反映した斬新さが評価された。レコードの第1号は当時の故浜井信三広島市長に贈られた。東西冷戦下における反核運動の高まりを背景に、「哀歌」は世界中に知れ渡る。

 実は、作曲当初は広島とは関係のない別のタイトルだったことが分かっている。戦後の音楽史に詳しい「ヒロシマと音楽」委員会の能登原由美委員長によると、「作品の完成後に、原爆のドキュメンタリー映画を見て心を打たれ、広島の犠牲者に捧げたのです」というインタビュー記事が残っているという。

 能登原さんは「原爆を直接描いた作品ではないにせよ、音楽の力でヒロシマを世界に広めた。死去による喪失感は広島にとって大きい」と悼む。

 後年には、同胞のアンジェイ・ワイダ監督が旧ソ連軍による虐殺事件を描いた「カティンの森」(2007年)など映画音楽も手掛けた。「戦争や暴力に対して敏感な思いを込め続けた。ポーランド国民に愛された作曲家であり『平和主義者』と呼ばれた」と能登原さんは評価する。

 70年代からは指揮者としても活躍。94年に広響と初協演し、「哀歌」を指揮した。「すでに当時は現代音楽の『古典』と称される作品だった。30年前の曲とは思えない、斬新なイメージが迫ってくる名演だった」とエリザベト音楽大の伴谷晃二名誉教授は回想する。

 昨年6月、広響が中区で開いた「Music for Peace コンサート」のために来日し、広響と25年ぶりの協演を果たした。事前に本人がタクトを執るのは本番だけと聞いていたが、その2日前のリハーサルでアシスタントに代わって指揮台に立った。自作の「平和のための前奏曲」(09年)を紡ぐ渾身(こんしん)のタクトからは、自らの音楽と信念を広響に継承したい―という思いが伝わってきた。

 その後、インタビューをする機会を得た。「戦争の惨禍による苦しみを受けた人々は、国境を越えて思いを共有できるはず」「音楽は抽象的なものであるが故に、人と人、国と国をつなぐという信念を持っている」。静かな口調に込められた情熱にただ圧倒された。

(2020年4月8日朝刊掲載)

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