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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 旧陸軍被服支廠の活用 「場」の記憶と向き合うために フリーキュレーター 伊藤由紀子さん

 広島県が昨年末示した一部解体案を受け、あらためて注目される広島市内最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(南区)。フリーキュレーターの伊藤由紀子さんはここを舞台に1990年代、国際的な現代美術展を手掛けてきた。その後も毎年、被爆建物を活用してアートでヒロシマの発信を続けている。その経験から活用を巡る議論に何が必要か、考えを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真・大川万優)

  ―被服支廠などで開いてきた「ヒロシマ・アート・ドキュメント」はことしで27年目です。
 広島アジア競技大会が開かれた94年に始めました。80年代に見たドイツのカッセル・ドクメンタなど欧州の野外美術展に心動かされたのがきっかけです。第2次大戦の英軍の空爆で破壊されたカッセルを訪ねた時、ドクメンタを創設したベテランアーティストの一人から「失われた誇りを復元したい」と、込めた思いを聞きました。カッセルと被爆地広島と交差しました。古里でもこんな美術展を再現したいと思いました。

  ―なぜ被服支廠を会場にしたのですか。
 最初は市中心部で開きましたが、3年目から被服支廠を会場にしました。実家に近く、かねてその「場」の持つ特別な空気を感じてきたからです。かつて軍服や軍靴を製造し、「軍都広島」を象徴する建造物であると同時に、原爆の爆風を受けた痕跡をとどめる被爆建物でもある。ちょうど県が貸し付けていた日本通運の使用が終わったタイミングでした。戦前から刻まれた歴史を意識しながら企画を発展させました。

  ―被爆から半世紀を迎えた頃ですね。記憶の風化にあらがう意図もありましたか。
 この建物を取り壊したかもしれない戦後日本社会へ提言したい思いがありました。被爆建物が観光用に消費されたり単なる古い建物として壊されたりすることに恐れを感じていました。

  ―被服支廠でどんな展示を。
 毎年、国内外の5組程度のアーティストが1カ月近く広島に滞在し、立体や空間構成の多様な新作を発表しました。

 どの作品も印象的でしたが、あるアーティストは、そこに生息する雑草に語りかけるストーリーを空間構成で表現しました。専門家の協力で調べると、被服支廠の周りの雑草には外来種が多い。日清、日露戦争で軍の輸送拠点となった宇品港に海を渡って運ばれ、物資と一緒にここまで届いたようです。作品を通して脈々と続く人の営みに気づかされはっとしました。

  ―記憶をつなぐ「場」の力を感じたのですね。
 アーティストは制作するとなるとおびただしい数の本を読み、歴史を学び、その土地と向き合います。被服支廠で発表した作品が認められ、パリのポンピドーセンターに所蔵された新鋭もいます。鑑賞する側の思考も促します。アート表現を通じて、被服支廠はヒロシマを考える重要な磁場になり得ます。

  ―県が一部解体案を打ち出して以来、保存を求める声が高まっています。
 もちろん残してほしい。ただ今の議論は保存か解体か、財源をどうするかといった話ばかりで、何のために残すのかという大事な点が後回しにされているように見えます。とにかく残す、被爆建物だから平和だ、折り鶴展示だといった単純な発想ではなく、私たちがこの建物をどう後世に受け継いでいくのか、まず方向性や活用策について深い議論が必要です。

  ―ビジョンがありますか。
 例えば、戦後に大学の寮として使われていた歴史もあるので、アーティストが滞在制作するアーティスト・イン・レジデンス(AIR)にしてはどうでしょう。ほかにも峠三吉の詩「倉庫の記録」に登場する場として文学館として活用するアイデアを聞いたことがあります。

 そうした多様なアイデアや意見を交わす場を、国なり県・市なりがきちんと設けるべきではないでしょうか。歴史を語る建造物を残していく意味を私たちはもっと掘り下げるべきです。老朽化の問題もあり、待ったなしの状況ですが、結論だけ急いではいけないと思います。

いとう・ゆきこ
 広島市南区生まれ。慶応大卒。放射線影響研究所勤務をへて現代美術を独学。88~91年、英仏に留学。94年、広島を拠点とするアーティストや美術関係者たちとクリエイティヴ・ユニオン・ヒロシマを結成し、代表に。被爆建物などを会場に美術展を数多く手掛ける。昨年まで広島女学院大などで非常勤講師を務めた。

■取材を終えて

 伊藤さんの熱い語りには、自らが手掛けた美術展を通して、この建造物が想像力を生み、記憶をつなぐ媒介となるとの実感がある。「無言の証人」を未来に生かすバトンを握っているのは今に生きる私たちだ。

(2020年4月8日朝刊掲載)

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