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戦艦大和沈没75年 次代への羅針盤 元乗組員の思い <下> 元高角砲分隊 西田耕吾さん(98)=和歌山県

紙一重の生還 語り継ぐ 「仲間が海底に沈んだままなのはかなわん」

 戦艦大和と共に最期を迎える、と一度は覚悟した。沈みゆく巨艦の巻く渦に多くの仲間がのみ込まれ、見えなくなった。西田耕吾さん(98)=和歌山県紀の川市=も渦にのまれたが、奇跡的に生還。戦後、体験の伝承活動に力を注ぎ、平和の大切さを訴え続けてきた。

 1945年4月7日午前、大和は特攻作戦で沖縄へ向かう途上、鹿児島県沖を航行していた。「敵編隊およそ200機」。右舷の高角砲発令所に配置されていた西田さんは、知らせに不吉な予感を覚えた。「今までにない(敵機の)数。助からないかもしれない」と頭をよぎった。

 昼すぎ、米軍機の波状攻撃が始まった。上空からの爆撃に加え、魚雷も次々に命中。艦底に最も近い階層にいた西田さんが指示に従い艦上へ上がった時には、大和は既に左舷側へ大きく傾き、沈みつつあった。「逃げ遅れてしもうた」。船体にしがみつくのがやっとだった。

 一人、また一人と仲間が海中へと姿を消す。西田さんも意を決して飛び込んだ。渦にのまれ、もがくうちに呼吸は苦しくなる。「万事休す」。そう思った直後、大和は大爆発。巨大な火と煙の柱を上げ、3千人を超す乗組員と共に沈んでいった。

 西田さんは爆発の衝撃で偶然、海面に浮上したとみられる。重油が浮かぶ波間で、木片にしがみついて救助を待った。その間も米軍機は容赦なく機銃掃射してきた。約2時間後、近くにいた駆逐艦冬月に引き揚げられ、一命を取り留めた。大和乗組員で生還したのはわずか276人だった。

 西田さんは小学校の教員時代に徴兵され、43年夏から大和の乗組員になった。「光栄であり、誇りだった。一番ええ戦艦で死ぬのなら本望だ、とも思っていた」

 戦況の厳しさを肌で知ったのが、44年10月のレイテ沖海戦だ。同型艦の武蔵は撃沈され、大和も損傷を負った。沖縄特攻の前に和歌山に帰省した西田さんは母に告げていた。「武蔵も沈んだ。大和もあかんかもしれん」。その言葉は現実となった。

 終戦後、西田さんは教壇に戻り、子どもたちに体験を語ってきた。「一度は死んだ身。二度目の人生と思ってな」。定年後も、講演活動を通じて伝承を続けた。「戦争は二度としたらあかん。生きるか死ぬかの経験は誰にもしてほしくない。苦い体験や」と強調する。

 大和の沈没から75年がたつが、戦友への思いが薄れることはない。「仲間が長い間、海底に沈んだままというのはかなわん。家族と一緒の墓に入れるように(遺骨を)引き揚げてやってほしいな」。数少なくなった元乗組員の一人として、大和が後世に語り継がれることを願ってやまない。(浜村満大)

戦艦大和の沖縄特攻
 大和は1945年4月6日、米軍が上陸した沖縄に向けて徳山(現周南市)沖を出発。生還を期さない水上特攻作戦だった。護衛の艦艇9隻と共に鹿児島県南西沖に差し掛かった7日、米軍機多数の攻撃を受け、大和をはじめ6隻が沈没。乗組員計約4千人が犠牲となった。

(2020年4月13日朝刊掲載)

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