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社説・コラム

『潮流』 プリマの覚悟

■東京支社編集部長 山中和久

 悪魔の使いが偽りの太陽を落としたのです―。広島市出身のバレリーナ森下洋子さんは著書で米国による原爆投下を書き表している。熱線に焼かれ、祖母の左半身にはケロイドが残った。大好きな祖母の人生から「知らず知らずのうちに何かを学んでいた」。平和への祈りが今も現役を貫く原動力の一つだと思う。

 来年で70年のキャリアを代表する演目「白鳥の湖」で全幕初主演を務めたのが前の東京五輪の年だった。

 再び五輪が東京にやってくる年の春に、率いる松山バレエ団が横浜と東京で予定した「新・白鳥の湖」の公演は、新型コロナウイルスの感染拡大で中止を余儀なくされた。

 横浜公演と同じ日、都内の稽古場に親しい関係者だけを招き、多くの人に届けるはずだった全幕をスタジオパフォーマンスと題して披露した。「人類の危機の今こそ芸術文化人の覚悟が顕(あらわ)れる時だと思っております」と、簡易なパンフレットに記されていた。

 舞台は16世紀の神聖ローマ帝国。王女オデットは悪魔ロットバルトの呪いで白鳥に姿を変えられてしまう。心を通わす王子は戴冠式で、ロットバルトが連れてきたオデットにうり二つの黒鳥オディールに惑わされ、妃(きさき)にしてしまう。

 ロットバルトの魔の手が、日常を奪うコロナ禍が重なって見えた。舞台芸術も公演中止にあえぐ。関わる人々は生活を脅かされ、表現の場を奪われている。

 「とてもつらい。でも、こういうときにこそ芸術が必要だと信じています」と森下さん。「危機を乗り越えた時、若い人に必ずチャンスを与えたい」と続けた。

 オデットと王子は真実を知り、悪魔に挑む。そんな姿を際立たせたのはプリマの美しく気迫に満ちた踊りだった。どんな苦しみにも前を向いた祖母のような、揺らぐことのない希望をたたえているのだと感じた。

(2020年4月14日朝刊掲載)

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