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社説・コラム

『今を読む』 彫刻家 細萱航平

震災遺構の可能性 地域史を語る手掛かりに

 災害の記憶を残そうとするとき、私たちはモノをしつらえる。例えば石碑やモニュメント、被災物など、物質的なモノを残すことで記憶を保存し、後世に伝えようとする。中でも近年特に注目され始めたものに震災遺構がある。

 2011年3月11日に発生した震災は、東日本の太平洋沿岸部に壊滅的な被害を与えた。建築の骨組みだけが残され、タンカーが陸上に打ち上げられ、場所によっては鉄筋コンクリート造のビルさえ根元からなぎ倒された。

 いつからか私たちは、そのすさまじい傷痕をとどめる構造物を、震災遺構と呼ぶようになった。社会学者の小川伸彦氏によれば、この言葉は東日本大震災の発生から1年以上たって徐々に新聞などでも定着していき、さまざまな特徴を持つ被災構造物の総称として、一つのカテゴリーのように使われるようになった。

 つまり、災害の痕跡をとどめ、その記憶を伝える構造物であるという現在の「震災遺構」の概念は、東日本大震災を契機に登場したものと言える。そう考えれば、今の私たちが抱く震災遺構のイメージとは、思いのほか最近になって定着したものだ。

 一方、筆者が広島で暮らしていたとき、街中にさまざまな遺構があることを知った。原爆ドームはもとより、旧広島陸軍被服支廠(ししょう)や元大正屋呉服店(レストハウス)など、戦争当時の面影を残す遺構が点在している。

 終戦から間もなく75年を迎える広島に残されたそれらの遺構は、東日本大震災の震災遺構と比べ既に長い年月を耐え抜いてきた。つまり、震災遺構の未来の姿でもある。

 この長い月日の中で、特に被服支廠や元大正屋呉服店などは、終戦以降もさまざまに役割を変えながら利用されてきた。被服支廠を例に挙げるなら、学校の教室や倉庫、学生寮として使われた。戦争や被爆、産業について伝える貴重な建築であると同時に、ローカルな地域史に組み込まれた遺構としても捉えられる。

 このように、長い年月を経た広島の遺構には、私たちが議論している震災遺構のように惨劇を後世に伝える機能のほか、その惨劇の前後で地域の人々の営みの舞台でもあったという歴史がある。もしそうした人々が遺構の前に立ったとき、一体どのような記憶を語るだろう。教科書的な歴史だけではなく、おのおのに想起する生きた記憶も聴いてみたくはないか。

 さらに長い年月がたった後には、東日本大震災における震災遺構も同じように地域史を語る手掛かりになるかもしれない。現在、東日本大震災の被災地では大規模なかさ上げが進み、震災前に人々が暮らした土地は、新たな地面の下に埋められていっている。

 そうして出来上がっていく新たな街の中に、かつての土地に存在した構造物が残されているのであれば、それは単なる震災遺構を超える。災害の記憶を伝承するだけではなく、かつて行われていた営みを想起する手掛かりとしても機能する。その土地の過去を証明し、そこに生き続ける人々のアイデンティティーを保証するモノにさえなるかもしれない。

 実際の生きた地域の記憶から離れて教科書的な歴史だけを表象する遺構であるなら、果たして本当にその地域の人々に必要とされるだろうか。

 確かに遺構を通じて災害や戦争の恐ろしさを伝えていくことは重要だ。だが震災遺構という見方に沿うことで、本来持っている多様な記憶を取捨していることには、注意しなければならない。

 遺構のようなモノが経てきたのは、戦争や災害の歴史だけではない。そこには地域の人々の営みがあったはずだ。そして遺構は、そのような人々が生きた地域の歴史を語るためのモノにもなる。それは、その土地、そこで生きる人々が何者かということにつながる。

 このような地域の営みを語る遺構という観点は、より意識されるべきではないか。それは、復興によって変わっていく街の中で震災遺構がなぜ必要かを考えるための手掛かりとなるであろう。

 92年長野県生まれ。東北大理学部卒。20年広島市立大大学院芸術学研究科で博士号(芸術)取得。市立大で昨年開いた、戦争や災害で残されるモノをテーマとした「災禍とモノと物語り展」でキュレーターを務めた。4月から宮城県美術館教育普及部技師。仙台市在住。

(2020年4月25日朝刊掲載)

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