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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 能見孝子さんー誰かの骨 母と同じ運命

能見孝子(のうみ・たかこ)さん(86)=広島市東区

土手からの光景 むごくて直視できず

 能見(旧姓石本)孝子さん(86)は、原爆投下後に爆心地から2・3キロの御幸橋で見た光景が忘れられません。ひどいやけどを負った人たちが苦しみながらさまよっていました。川土手も大勢の人で埋(う)め尽(つ)くされ「生きているのか死んでいるのか分からない」様子でした。

 1945年当時は11歳、皆実国民学校(現皆実小、広島市南区)6年生でした。両親ときょうだい3人の5人家族。1歳9カ月と4歳の弟は甘えん坊で、よく面倒(めんどう)を見ていました。父正雄さんは、皆実町1丁目の自宅の隣(となり)で鉄工所を経営し、軍需物資(ぐんじゅぶっし)の生産に追われていました。

 能見さんは現在の安佐南区に学童疎開(がくどうそかい)していましたが、体調を崩(くず)して7月から自宅に戻っていました。8月5日の夜、母チヨノさんに「明日は町内の人たちと勤労奉仕(きんろうほうし)に行くから学校を休んで弟たちの面倒を見てね」と頼まれました。8日が当番日でしたが、都合が悪くなった人に代わって雑魚場町(ざこばちょう)(現中区)に行くことになったのです。

 6日早朝、チヨノさんが弁当を用意しているのを見て正雄さんは「孝子、お母さんにご飯をたくさん入れてあげなさい」と言いました。麦飯をたくさん詰めてあげると、チヨノさんは「そんなにたくさん食べられるかしら」とほほ笑んだのを覚えています。

 しばらくして、米軍のB29爆撃機(ばくげきき)の音が聞こえてきました。空を見るため玄関(げんかん)から出ようとした時、黄色い光を全身に浴びました。壊れた屋根や柱が身体に覆(おお)いかぶさってくるのを感じながら意識を失いました。

 自宅は爆心地から約2キロ。意識が戻ってがれきの中からはい出そうとしましたが、息苦しくて動けません。やっと庭があった場所に出て、弟たちの名前を叫びました。父が頭から血を流しながら全壊した工場から出てくると、弟たちを助け出しました。

 4人で自宅の防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込むと、すぐに火の手が迫ってきました。近くの京橋川に飛び込み、いかだにしがみつきます。船でそばを通った夫婦に引き上げてもらい、昼すぎまで船上でぼうぜんとしていました。

 御幸橋東詰めの雁木(がんぎ)から土手に上がり、目の当たりにした光景は悲惨(ひさん)そのもの。身体の一部が黒く焦げていたり、真っ赤に顔が膨(ふく)れ上がったりした人たちが集まっていました。「この中にお母さんがいるかもしれない」。そう思いましたが、むごくて直視できませんでした。

 チヨノさんは爆心地から約1キロで被爆して似島に運ばれた、と聞きました。原爆投下の3日後に正雄さんが似島(南区)へ渡り、少量の髪の毛と骨のかけらを持ち帰りました。「誰のものか分からないけれど、みんなお母さんと同じ運命だったのだから…」。父は泣いていました。

 能見さんは戦後、母の代わりに弟たちの面倒を見て家族を支えました。17歳で市内の出版社に就職し、21歳から7年間は広島地方検察庁で事務員として勤務。その間に結婚しました。

 東京に住む孫から「被爆体験を聞かせて」と言われたのをきっかけに、広島市の「被爆体験証言者」の研修を受けました。しかし体調不良などの事情から、3年の研修期間のうち1年を残して断念(だんねん)しました。

 それでも「若者に直接伝えたい」との思いは変わらずに持ち続けています。原爆を経験してつらいこともありましたが、支えてくれた人たちへの感謝を胸に、世界から永遠に戦争がなくなる日を願っています。(新山京子)

私たち10代の感想

教育環境の大切さ実感

 能見さんは父親の鉄工所の従業員(じゅうぎょういん)が戦地へ行き、人手不足だったため学童疎開に戸惑(とまど)いを覚えたそうです。子どもたちが安心して教育を受ける環境でなかったことを実感しました。学ぶことの大切さを感じながら、戦争の記憶を伝承(でんしょう)する活動を続けたいです。(ジュニアライター卒業生、大学1年平田佳子)

「当たり前」 戦時は違った

 「母がもう帰ってこないということは信じたくなかった」と言った能見さんの表情(ひょうじょう)が忘れられません。最愛の母親を奪(うば)われた悲しみが刻(きざ)まれていました。用事で出かけた家族が無事に家に帰ってくるのは、当たり前のことです。しかし、戦時は違ったのです。幸せな生活を変えてしまう戦争は二度としてはいけないと感じました。(高1林田愛由)

(2020年5月7日朝刊掲載)

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