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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆75年] 埋もれた犠牲者 海外にも

 広島原爆による1945年末までの犠牲者数は、推計値で「14万人±1万人」とされるが、実数として把握できているのは、昨年3月末現在で8万9025人。この数字の落差を巡る「空白」の少なくとも一部が、日本が植民地支配していた朝鮮半島の出身者であることが資料から明らかになってきた。生き延びて戦後帰還した人も、長らく日本政府の援護の枠外に置かれ続けた。そのため、戦後の早い時期に亡くなった在韓被爆者も、相当数が把握されていないとみられる。命を奪われて、あるいは生き残って、「空白」にされた人たちの苦難をたどる。(小林可奈)

韓国・陜川の資料館や被爆者をたどった

生きた証し「広島に残して」 貧困・差別 戦後も続く苦難

 韓国第2の都市、釜山から北西約100キロの山間にある陜川(ハプチョン)郡。「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。日本の植民地統治下、ここから広島へ移り住み、1945年8月6日に被爆した末、日本の敗戦後に帰還した人たちが多くいた。

 今年2月に現地を訪れた。広島市も日本政府もいまだに把握していない原爆死没者がいるはず―。手掛かりを求めた。

 被爆者たちが入所する療養施設「陜川原爆被害者福祉会館」に隣接して、陜川原爆資料館がある。韓国原爆被害者協会の陜川支部が運営しており、資料室を併設している。

 同協会はソウルで67年に結成。多い時で約1万人の会員を抱え、さまざまな調査を行ってきた。70年代初めに会員から被爆体験や家族の死亡実態を聞き取って作成した「身上記録」や、原爆死没者の記録カード、健康状態の聞き取り調書などもある。資料室に膨大な量の文書が並ぶ。

「身体不自由」

 記者は、沈鎮泰(シム・ジンテ)支部長(77)の全面協力と会員たちの許可を得て、文書に目を通した。一部だが、それでも約5万ページに及んだ。

 「徴用」「被爆の為(ため) 身体不自由」「子どもは爆死」「極貧」―。達筆な日本語の記録や「創氏改名」で強いられた日本式の名前が併記された名簿も。50年に始まった朝鮮戦争にも翻弄(ほんろう)され、苦労を重ねた人生が浮かび上がる。

 「二重、三重の苦しみを経験した人々の姿が、目の前に現れてくるようです」。記者が同行した「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」の中谷悦子支部長(70)=廿日市市=が実感を込めた。在韓被爆者が日韓両国から捨て置かれていた70年代から、支援を続けている市民団体だ。

 多くの在韓被爆者は、原爆死没者の遺族でもあるため、同協会が保管する文書のところどころに死没者情報がある。それらを生かすことによって今回、広島原爆の45年末までの犠牲者が広島市の「原爆被爆者動態調査」から漏れている可能性があると分かった。

 ならば、平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑に納められた「原爆死没者名簿」にも登載されていないことになる。確かに生きていた存在を、埋もれさせておくべきではない。新型コロナウイルスの感染が拡大する中、広島から取材を続け、同協会の会員とインターネット電話や手紙でやりとりした。

 大邱市郊外に暮らす鄭良子(チョン・ヤンジャ)さん(75)は、1歳の頃広島市内で被爆した。父・達相(ダルサン)さん=当時(31)=と、姉・基仙(ギソン)さん=当時(9)=は、記録によると45年8月に被爆死。鄭さんは兄らと祖国へ戻ったが、生活は貧しく、父や姉の被爆死について考える余裕はなかったという。「学校に行けず、靴さえ履けなかった。生きるのに精いっぱいでした」。取材理由を説明すると「もし2人の名前が広島に残っていないのであれば、記してほしい」。

 釜山市郊外に住む白榮鉉(ペク・ヨンヒョン)さん(82)の叔父・陽基(ヤンギ)さん=当時(14)=も、広島で被爆死し「遺骨は見つからなかったと聞いています」。やはり広島市の動態調査から漏れているとみられる。

日本の不作為

 朝鮮人の原爆被害の実態は、不明な点が多く残されている。

 79年に広島、長崎両市が刊行した「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店)は広島市で2万5千~2万8千人が被爆し、5千~8千人の範囲で死亡したと推測。韓国原爆被害者協会は「3万人死亡」と推定している。広島の原爆資料館は、展示パネルなどであえて推計値には言及していない。

 不明な点の多さは、日本の政策も大きく関係している。被爆者健康手帳の交付申請書は、日本側にとって原爆犠牲者の存在を知る手掛かりになる。しかし日本政府は長い間、在外被爆者の手帳申請自体に高いハードルを課していた。

 日本の不作為に加え、終戦20年後の日韓国交正常化や、韓国国内での被爆者差別と沈黙、といった事情も絡み合う。朝鮮半島に「空白」は残されたままだ。

長年 援護の枠外に 謝罪や補償 届かぬ訴え

 被爆者健康手帳を持つ在外被爆者は、厚生労働省によると2019年3月末現在で韓国の2119人をはじめ、米国やブラジルなど29カ国・地域に2966人。現地の国籍の人も、日本国籍のままの人もいる。

 日本政府は、サンフランシスコ講和条約で原爆投下国の米国に対する賠償請求権を放棄しながら、自ら在外被爆者に対する責任を果たそうとはしなかった。在外被爆者と、支援する日本の市民が、国を相手に裁判を共に闘い、国会に働き掛けながら「格差」の厚い壁を突き崩していった。

 日本国内では1957年の原爆医療法に基づいて被爆者健康手帳の交付が始まった。後遺症に苦しむ韓国人被爆者が「密入国」、あるいは日本の市民の支援で渡日し、手帳交付を求めて裁判で勝訴すると、対する旧厚生省は「日本国外で手帳は失効」と定めた「402号通達」を発した。

 このため日本国外で健康管理手当を受給する資格はなかった。また、海外からの手帳の交付申請や原爆症認定申請もできなかった。

 司法判断に押されて国が通達を廃止したのは、2003年。健康管理手当の海外受給などは実現したが、格差はなおも残った。「被爆者はどこにいても被爆者」を合言葉に、韓国、米国やブラジルに住む被爆者は裁判を続けた。高いハードルだった医療費助成の上限額の撤廃に至ったのは16年だった。

 在外被爆者の「格差」是正に一定の道筋は付いても、真の問題は解決されていない。本来、日本が遂行した戦争の被害に対して国が謝罪、補償すべきだ、と当事者たちは訴え続けている。

 原爆被害者の中には中国から強制連行された人もいた。戦後北朝鮮に渡った1911人を確認した、という08年の調査もあるが、すでに多くが亡くなっているとみられる。日本と北朝鮮は国交がないため、在外被爆者援護の枠外に置かれ続けている。

(2020年6月8日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆75年] 朝鮮人被爆死 把握漏れ 広島市 45年末まで相当数か 韓国側の資料で判明

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