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本通り 被爆からの復興 生き残った店主ら奮闘・祭りで集客…

 広島市中心部を東西に延びる本通り商店街(中区)に「本通り」の名が付いてから、今年で90年。爆心地から約数十~700メートルの通り一帯は75年前の8月6日に焼き尽くされ、一家全滅した店舗も少なくなかった。しかし生き残った店主らの奮闘で再建され、今日も買い物客が行き交う。戦後復興期の歩みと街の変遷を振り返る。(山下美波)

 「アメリカンショップ」「明治屋」などの看板を掲げた建物の前を、自転車や徒歩の市民が行き交う。被爆から3年後の1948年に撮影された。原爆で壊滅した本通りでの再起を諦めた店主が少なくない中でも、復興が進んでいた占領期の雰囲気が伝わる。

 「ここに戻った50年末、すでに店舗が立ち並んでいましたね」。生まれ育った本通りで現在も暮らす奥本博さん(90)=中区=は語る。旧播磨屋町にあった生家の金物店は原爆で焼失し、両親や妹弟ら6人を失った。生き残った祖母と共に数年間、香川県の親戚宅へ身を寄せていた。

 その間、本通りの「再生」を主導していたのが、楽器店を開いていた故中山良一さんだった。広島本通商店街振興組合が編んだ「広島本通商店街のあゆみ」によると、中山さんは疎開させていて焼失を免れた旧播磨屋町の町内会名簿から生き残った店主らの消息をたどり、45年9月には会合を開く。翌46年、「広島本通商店街復興発起人会」(草分(くさわけ)会)を発足させた。

 住宅営団の配給で6畳一間と炊事場や店舗部分が付いたバラック10戸が建ったものの、依然空き地は多かった。店を開きたい人たちを呼び込んで「少しでもにぎやかに見せよう」と、中山さんたちは移動可能な「一坪店舗」を建てた。

 広島駅前の闇市に客が集まるなど、いくつもの困難があったという。振興組合の元事務局長、野田博さん(89)=西区=は「闇市とは品物の質が違う、という本通りのプライドがあったのでしょう」と話す。46年末には戦後初めて「福引大売り出し」を開催した。

 日中戦争が始まるまで本通りで暮らした野田さんは、50年に本通りの呉服店で働き始めた。52年、本通りでパレードを繰り広げる「広島まつり」が始まり、集客力も増していく。奥本さんと野田さんはその後、本通りでそれぞれ紳士洋品店を開いた。

 「これほどの商店街になるとは、被爆直後は想像できなかった」と野田さん。ただ近年は、軒を連ねていた個人商店が次々と大量生産品を扱うチェーン店に替わり、寂しさも覚えるという。「ここにしかない個性ある店が並び、より魅力ある通りになってほしい」。焼け野原から再起した街が、にぎわいの拠点と復興のシンボルであり続けることを願う。

(2020年7月14日朝刊掲載)

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