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平和のリボン 遺志つなぐ 来月1日集い 感染防止で屋内掲示

 核兵器のない平和な世界への願いを布に書いて掲げる「平和のリボン」の集いを8月1日、広島市の市民グループが計画している。被爆者の女性たちが30年前から5年ごとに原爆ドームを囲んできたが、新型コロナウイルスの感染防止のため、今回は関係者だけで屋内開催。活動を支えた渡辺美代子さんが他界し、笠岡貞江さん(87)=西区=が遺志を継ぐ。(桑島美帆)

 青い地球に「平和」の文字。赤いハートの中で四つ葉のクローバーをくわえたハト―。今月16日、「広島ピースリボンの会」の4人が、会場となる原爆資料館メモリアルホールで予行演習をした。笠岡さんが絵の具やアップリケをあしらった50センチ×1メートルのリボンを並べていく。「戦争も核兵器も絶対に嫌、という思いを渡辺さんたちと共有してきました」

 笠岡さんは12歳のとき、爆心地から3・5キロの江波町(現中区)の自宅で被爆し、市中心部に出ていた両親を失った。大やけどで息絶えた父の遺体を木切れで焼いた。母は「紙袋に入った骨のかけら」に変わり果てて帰宅。戦後、兄が学校をやめて働きながら育ててくれた。近所に住む渡辺さんに誘われ、15年前から市の被爆体験証言者として修学旅行生たちに「絶対に嫌」の思いを伝えている。

 「平和のリボン」の発祥は、冷戦期の1985年に米国で始まった反核運動。それに呼応した渡辺さんが被爆者たちに声を掛け、90年に「ヒロシマ・平和リボンの会」を結成。核実験が強行されるたび、怒りを込めてリボンを掲げながら原爆慰霊碑前で座り込んだ。

 5年おきに、8月6日を控えた原爆ドーム前にも集った。笠岡さんは毎回参加し、長年活動するガールスカウトのメンバーや、修学旅行生に呼び掛けてリボンの枚数を増やしていった。

 被爆70年だった前回から4カ月後の2015年12月、渡辺さんは85歳で死去。笠岡さんが病床の渡辺さんを見舞うと「もうできんかも分からんから…」とリボン約2千枚を託された。被爆者の思いを次世代につなごうと、ガールスカウトの角山愛さん(47)=安芸区=たちに協力を求め、新たに会を発足させた。

 通算7回目の今回は、約2千枚を入れ替えながら会場の椅子の上に並べ、笠岡さんが被爆体験を語る。当初は西広島駅(西区)から平和大通りをパレードして平和記念公園に到達する予定だったが、コロナ禍で断念し、参加者も限定することにした。その分、会員制交流サイト(SNS)などを通して国内外に積極的に発信する。リボンを掲げる集会は、東京と米ニューヨークでも計画されている。

 「多くの命の犠牲の上に今があることを忘れないでほしい」と笠岡さん。角山さんは「若い世代に参加を広げながら、内戦や貧困で苦しむ世界の人たちにも私たちの平和を願う気持ちを伝えたい」と意気込む。25日まで、思い思いに描いたリボンを撮影した写真データを募集している。girl‐scout.h15@outlook.jp

(2020年7月19日朝刊掲載)

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