×

連載・特集

被爆75年 岐路の被爆者団体 <4> 被爆2世

親の人生受け止め継承

 「被爆2世とは何よりもまず、被爆者の子なんです」。呉市音戸町の自宅で、崎本賢次さん(73)はそう切り出した。2世として、町原爆被爆者友の会の会長を担う。当たり前にも聞こえる言葉の真意を問うと「子として、被爆し生き抜いた親を受け止める。それが第一だ」と語った。

 父の次郎さん(2000年に82歳で死去)がかつて務めた会長に就いたのは19年だった。次郎さんの後任で叔父の尾形正治さん(90)が高齢となり、引き継いだ。発足した1964年に約560人いた会員は、120人ほどに減少。被爆していない2世に何ができるか、あらためて自問した。

 被爆2世は被爆者運動の担い手として期待され、一部で組織化が進んでいる。被爆による健康影響への不安を背景に、2世への援護を国に求める動きもある。

 友の会は40人の2世部会員がいるが、現役世代も多く、運動に関わるのは容易ではない。崎本さんは「運動以上に、父や母の人生を受け止めるのが役割だ」と考える。2世だからこそ受け継ぎ、伝えられる記憶があると信じるからだ。

友の会に手記

 崎本さんは広島に原爆が投下された翌46年、被爆者の両親の間に生まれた。次郎さんは宇品町(現広島市南区)の陸軍船舶練習部に所属する軍人で、出勤途中に被爆。母花子さん(18年に95歳で死去)は牛田町(現東区)の自宅でガラスの破片を浴び、重傷を負った。

 次郎さんは、多くの負傷者を収容した練習部の光景を、友の会の体験記集(85年)に残している。「泣く声、親を呼ぶ声、唸(うな)り声、其(そ)の喧(かまびす)しい事、惨状は接した者でないと理解出来ない」「戦争には度々参加し、多数の戦死者を見て来ましたが、此(こ)の様(よう)な悲惨な状態には比べる事が出来ません」

 「父は自らの被爆について全く語らなかった」。崎本さん自身、手記で初めて詳細を知ったという。しかし、ラバウル(パプアニューギニア)の前線で「死ねなかった」経験は、話してくれたことがあった。

 銃弾が飛び交う中、マラリアに倒れた次郎さんを部下が懸命に守ってくれた。巻き添えにはできないと考え、自ら命を絶つため小銃を喉元に当てたが、ついに引き金を引けなかったという。「敵はいくらでも撃ったが、死ぬことはできんかったよ…」。自らの生への執着を責めるように絞り出した言葉が印象に残った。

 南方から生還した次郎さんは、広島でも偶然に建物の陰で熱線の直撃を免れ、命をつないだ。戦後は製鋼会社に勤め、晩年に友の会の会長に。被爆者健康手帳の取得を望む人のため、証人を捜し、書類を書き、県庁と交渉した。崎本さんの記憶する父は、いつも誰かのために奔走していた。

息子だけ知る

 忘れられない父との時間がある。子どもの頃、代々受け継ぐ畑で一緒に野良仕事をした。作業の合間、柿の木から真っ赤で大ぶりな実をもぎ、2人で座って食べた。「賢次。ラバウルでもおいしい果物がたくさんあったが、この柿ほどおいしいものはないよ」

 崎本さんは今も、秋には同じ木から柿をもぎ、同じ場所に座って食べる。口に広がる甘みは、戦地から、広島から、紙一重で生還した父との記憶だ。原爆資料館にも、証言ビデオにも残らない。息子だけが知る、被爆者の人生の何げなく、かけがえのない一瞬だ。

 「親が生き抜いてきた時間を、子や孫へと伝えていくのが私たちの役割になるのだろう」。ほかの2世にも、一緒にその役割を果たしてほしいと願っている。(明知隼二)

(2020年7月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ