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被爆者運動 原点伝える 日本被団協初代事務局長・藤居氏らの原資料 広島県立文書館が月内公開

 今日に続く被爆者の訴えや活動の始まりを伝える原資料が残されていた。被爆11年後の1956年、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の結成で事務局長を担う、藤居平一氏の直筆ノートを含む一連の資料を研究者らが受け継いできた。寄贈を受けた広島県立文書館は今月中に、計312点を整理した「仮目録」をホームページに掲載して原則、公開に応じる。(西本雅実)

 54年の米軍ビキニ水爆実験を機に原水爆禁止の署名が国民的な運動となり、55年8月に初の原水禁世界大会が広島市で開かれる。56年5月の広島県原爆被害者団体協議会に続き、8月には日本被団協の結成大会が長崎市であった。それらを巡る議事録・調査報告書・書簡・草稿などから成る。「ふたたび被爆者をつくるな―日本被団協史50年史」(2009年刊)にもない記録が多数見つかった。

 当時の県知事・広島市長も委員に就いた「原水爆禁止広島協議会」に55年11月設けられた「原爆被害者救援委員会」のガリ版刷り経過報告(56年6月24日付)は、「常に生命の不安におびえる被害者が一身を顧みず原水爆の禁止を訴え」たことが、「救援しなければならぬという大きな反響を呼び起こした」とみる。

 また、資料からは、原爆被害者が「自力更生」を心身とも図れるような「援護法」の制定や、親や子らを失った遺族を含めた「国家補償」を組織化の当初から求めていたことが分かる。

 広島協議会に世界大会直後から相次いで寄せられた書簡や電報は、救援金送付や証言者の招請を伝える。

 「生々しい体験談を直接横浜市民に…」「原水爆禁止運動を広い視野からとらえるためにも(早稲田大学園祭中に)大隈講堂でお話しいただきたい」。1年足らずのうちに、25都府県へ延べ80人が列車(3等)による証言の長旅に応じた。

 救援委員会幹事長を務めた藤居氏は、56年2月4日の討議を記したノートに「救われるものが救ふ」と書いていた。日本被団協は結成に際して、「私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と宣言する。被爆体験を礎とする訴えの精神が資料には刻まれてもいる。

 一連の資料は、被爆者運動にも深く関わった広島大教授の石井金一郎氏(67年死去)が託され、藤居氏の聞き書きを同大助手時代に手掛ける宇吹暁さん(73)が77年に受け継ぎ、藤居氏が96年亡くなると遺族の意向を受けて保管してきた。

 県立文書館は、原水禁運動を研究した今堀誠二氏(92年死去)の収集資料を所蔵公開する。その整理に当たった安藤福平・元副館長(71)は「ヒロシマを伝えていくためにも、各組織が持つ原爆資料が体系的に細目まで整理され、それらが横断的にデータ検索できる仕組みが望ましい」と提起している。

現存に驚き

「原爆体験と戦後日本」の著者、直野章子京都大人文科学研究所准教授の話
  これほどの資料が残っているのに驚いた。病苦や偏見にさらされた被爆者が、どう立ち上がっていたのかを追うことができる。原水爆禁止を求めた市民との出会いや連帯を通じて、互いに影響を受け、今日の訴えが形づくられていったのも見えてくる。貴重な資料の公開によって原爆研究はさらに深まるだろう。

(2020年8月2日朝刊掲載)

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