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被服支廠保存 議論ようやく 被爆した中西さん「本気で活用を」

 呉市の被爆者、中西巌さん(90)は、広島市内に残る最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(南区)のあの日の惨禍を胸に刻み、その保存を訴え続けてきた。世の中の関心を少しずつ高め、持ち主の広島県、国を動かし、存廃議論が熱を帯びる被爆75年の夏。「ようやくここまで来た。建物を前に核兵器廃絶の思いを新たにし、本気で活用を考えてほしい」と願う。(樋口浩二)

 「ここに立つと鮮明に思い出す。全身をやけどした人たちがやって来ては倒れ込んだ」。3日、L字形に残る4棟のうち、北端の1号棟の前で中西さんは振り返った。

 広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)4年生だった15歳の夏、動員学徒として軍服などを運ぶ作業をしていた時に1号棟の東側で被爆した。建物の陰で爆風を免れて無傷だったが、敷地内のあちこちで老若男女が力尽きる「地獄のありさま」を見た。

 戦後、呉市のメーカーに勤めながら「生かされた者の責任」を感じていた。定年後の2000年に被爆証言を開始。ゆうに800回を超えた。

 その間、齢を重ねながら「被爆者がいなくなっても平和を発信する場になる」との思いを強めた。共感した被爆者や専門家たちと14年3月、市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」をつくり、代表に就任した。「当時は『あの建物は何?』っていう反応が多くてね」と思い返す。

 3棟を持つ県や広島市の担当者も会合に招いたが、保存に動く気配を感じなかった。懇談会として見学会や講演会を地道に開き続けた。要望の結果、市が15年に被爆建物を示す看板を出入り口近くに設置した。

 県は17年に活用策の検討に向けた耐震性調査をした。18年末に被爆証言を聞く建屋の新設を公表したが、県議会最大会派の反発で頓挫。一転、安全対策の原案「2棟解体、1棟外観保存」を19年末に打ち出したが、被爆者団体などの反発で見送っている。

 曲折を経る中で、見学者は増え、関心を持った市民が催しや保存の署名集めに協力してくれた。巨大な「もの言わぬ証人」の存在は市民に浸透してきたと感じる。

 原爆の日の6日、安倍晋三首相(山口4区)は中区である平和記念式典に合わせた視察を見送ったが、加藤勝信厚生労働相(岡山5区)が訪れる。それに先立つ5日には、公明党の山口那津男代表が訪問する。

 「原爆投下は国の誤った政策の結果だ。未来の平和のため、国が先頭に立って保存するべきだ」と中西さんは言う。その時が訪れるよう、赤れんが倉庫の前に立ち、語り継ぐと誓う。

旧陸軍被服支廠(ししょう)
 旧陸軍の軍服や軍靴を製造していた施設。1913年の完成で爆心地の南東2・7キロにある。13棟あった倉庫のうち4棟がL字形に残り、広島県が1~3号棟、国が4号棟を所有する。県は、築100年を超えた建物の劣化が進み、地震による倒壊などで近くの住宅や通行人に危害を及ぼしかねないとして昨年12月、「2棟解体、1棟外観保存」の安全対策の原案を公表。県議会の要望などを受け、2020年度の着手は先送りした。4号棟は、所有する国が県の検討を踏まえて方針を決めるとしている。

(2020年8月4日朝刊掲載)

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