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[ヒロシマの空白 被爆75年] 姉との日々 反物越しに 天野さん「大切に子と孫へ」

 爆心直下の被爆建物「レストハウス」(広島市中区)でかつて営まれていた大正屋呉服店の反物や浴衣が、奇跡的に残っていた。天野友直さん(94)=西区=にとって、75年前までの家族の日常と、被爆死した姉を思い出させる遺品。「あの日までの人々の暮らしや営みを伝える品でもあります」と大切にしている。(新山京子)

 天野さんの実家は、父進作さんが白島西中町(現中区)で開いていた精神科の「廣島(ひろしま)脳病院」。100床ほどの規模で、自宅を兼ねていた。天野さんは5人きょうだいの4番目だった。

 6歳違いの孝さんは「賢く優しかった姉」。大正屋呉服店で買った着物をよく着ていた。原爆が投下された時、自宅1階にいて倒壊した建物の下敷きになった。近くにいた母史子さんの呼び掛けに、返事はなかったという。25歳だった。爆心地から約1・5キロの病院は全焼した。

19日に市内入り

 19歳だった天野さんは慶応大医学部予科の学生で、広島壊滅の一報を東京で聞いた。列車の切符がなかなか取れず、19日に市内へ入った。「広島駅に着くと、己斐(現西区)まで見えるほどの焼け野原」。ぼうぜんとした。市内で合流した父から、孝さんの死を知らされた。

 「戦時中だから家族が命を落とすことがあっても仕方がない、と覚悟はしていた。それでも、米国に対する憎しみが心の底から湧いてきました」と天野さんは振り返る。

 4年後の1949年、父が焼け跡の近くに「天野病院(現天野医院)」(中区西白島町)を再建。天野さんは61年に院長を引き継いだ。「家族に影響があるかもしれない」と差別を憂い、被爆者健康手帳は取得しなかった。入市被爆について家族以外に語ることなく生きてきた。

当時の写真探す

 2006年に一線を退いた。肝臓がんを患い、苦しい療養を続ける中で、亡き姉と過ごした日々を振り返るようになる。「私の最後の使命として、原爆を経験した家族史を残そう」との思いを強めた。同居する長男一家に支えられながら、記憶をたどって被爆前の病院の見取り図を書いたり、当時の写真を探したりしている。

 7月上旬には「わかさ屋呉服店」(中区堀川町)を訪れた。反物を包む畳紙の1枚に「若狭」と手書きで記されているからだ。戦争中の燃料統制令のため閉店する1943年まで大正屋呉服店の支配人を務め、戦後に自ら店を開いた故若狭金治郎さんの自筆と思われる。

 「たくさん着物を持ってきて、玄関に並べながら熱心に説明していた若狭さんの姿をよく覚えています」と天野さん。若狭さんの孫で店を継ぐ利康さん(64)は「祖父と大正屋呉服店に関する品は、現在レストハウスに展示されている法被のほか、ほとんど残っていません」と喜んだ。

 天野さんの心の中にあるのは、着物姿でほほ笑む孝さんの姿だ。「姉が生きた証しを大切に残し、わが子たちと3人の孫に引き継ぎたい」

(2020年8月4日朝刊掲載)

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