×

社説・コラム

[歩く 聞く 考える] ヒロシマの継承 「声なき声」忘れてはならぬ 被爆手記を読み続けるIターン者 一森雅彦さん

 広島市の平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には、14万編を超す被爆体験記が収められている。3年前に新潟市から広島市中区に移り住んだ一森雅彦さん(76)は毎日のように午前中の1時間、館内の地下1階で手記をめくっている。「被爆者ではない一市民」のヒロシマ継承として、読破を目指す思いを聞いた。(論説委員・石丸賢、写真・田中慎二)

  ―広島には、どんなご縁で。
 一人息子がキリスト教の牧師となり、12年ほど前から庄原市東城町の教会でお世話になっていまして。私は次男坊で墓守の心配もないので妻とも相談し、「子や孫の近くで過ごそう」と。新潟の家を引き払い、暮らしやすい中枢都市広島に移ってきたようなわけです。

  ―これまで広島を訪れたことはあったんですか。
 職場の旅行で1度。平和公園に立ち寄ったものの、原爆資料館には入らずじまいでした。

  ―今は、日課として被爆手記に目を通しているそうですね。
 平和公園の追悼祈念館で午前中に1時間、被爆者と相対するつもりで熟読させてもらっています。この8月1日で通算800回となり、やっと1万編くらいの手記を読みました。

  ―読み始めたきっかけは。
 大やけどなどの深手を負った被爆者の写真集を何度も開くうち、「むごさ」に慣れてきた自分に気付きましてね。「これじゃ駄目だ」と。被爆者でも何でもない自分が、一人一人異なる被爆の事実に向き合い、受け止めるにはどうすればいいか。想像を働かせる糸口として、肉筆の体験記はぴったりでした。

  ―肉筆だからこそ伝わってくるものがある、と。
 そうなんです。17歳で被爆した女性は「原爆に遭ったのが娘や孫でなく私でよかった」「今も背中がジンジンと痛みます。でも負けません」と書いています。5歳だった男性は、父が全身を被爆しながら妻子や母を捜し歩き、力尽きた時には体が風船のように膨らんでいた―と。1字1字、どんな思いでつづったのだろうと胸が詰まります。

  ―追悼祈念館に向かう前、平和公園巡りをするそうですね。
 はい。朝8時すぎに家を出て、歩いて公園へ。原爆慰霊碑から韓国人原爆犠牲者慰霊碑、原爆供養塔、原爆の子の像、動員学徒慰霊塔、原爆ドームなど、自分なりに定めた祈りのポイントを巡ります。旅行者らしい人を見ると、「原爆のお話をさせてもらってもいいですか」と声を掛けています。

  ―どんな、お話を。
 例えば原爆の子の像では、私と同い年の佐々木禎子さんの生い立ちや千羽鶴をもとにした再生紙について。原爆ドームなら、爆心地の地上温度が3千~4千度に達し、太陽の表面温度5700度に近かったことなどを伝えます。被爆者健康手帳の持ち主が現在13万6682人いるといった数字も知らせます。

  ―数字がすらすらと、よく出てきますね。
 被爆者の体験記を読むにつれ、もっと実相を知り、正確に伝えられるようにしたいとの思いが強まるものですから。中国新聞も毎朝読んで、データをノートに取っています。

  ―生の声で被爆者の思いに接することはそのうち、かなわなくなります。
 だから生の証言とともに、死者の声に耳を傾けることは大事。今を生きる者の務めだと思えてなりません。体験記から「声なき声」を聞き取るには、より一層の想像力が必要です。

  ―広島市民となって、気付いたことはありますか。
 被爆直後のどさくさで、遺灰や遺骨の一部は今も地中に眠っている。アスファルトの下に。広島の市街地は、全体が「墓地」みたいなものだな―という感じを持っています。それと、憲法9条の平和主義の意義を改めてかみしめました。

  ―どういうことでしょう。
 アフガニスタンの復興に尽くし、昨年殺害された医師中村哲さんに「非武装で世界から信頼される国になることが憲法9条の精神」「それは理想論でなく、現実にできる早道だ」というふうな言葉があります。被爆地の不戦の思いに通じる、未来志向の世界基準だと思います。

いちもり・まさひこ
 ソウル生まれ。戦後、日本に引き揚げ。新潟明訓高卒。62年国鉄新潟支社に入社。車掌や新潟駅旅行センター、長岡、新潟各駅の助役などを歴任。国鉄が分割民営化した87年から損害保険大手や地元の銀行、新潟駅ビルに出向。99年洗礼を受ける。夫婦で自宅近くの日本キリスト教団広島教会の教会員。

■取材を終えて

 「声なき声」に耳を澄ますことで、別の風景が一森さんに見えてきたのだろう。それは、私たち報道に携わる者の務めでもあることを忘れたくない。

(2020年8月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ