×

ニュース

[ヒロシマの空白 被爆75年] 叔母の最期 調書で発見 広島市西区の中原さん 焼死の地訪れ慰霊

 広島市西区の中原里枝さん(76)は、叔母弥生さんの被爆死について家族から聞かされないまま、胸のつかえを抱えて生きてきた。今月に入り、市が公開している「原爆罹災(りさい)者名簿」の検視調書から発見。約75年をへて、叔母の最期をめぐる「空白」を埋めた。「もっと生きたかったことでしょう」。記憶にはない肉親の命に、思いを寄せている。(新山京子)

 中原さん一家は、広島駅近くの猿猴橋町(現南区)で「つかさ屋呉服店」を営んでいた。自宅を兼ねており、父政司さんの妹の弥生さん=当時23歳=も中原さんたちと同居していた。

 安田高等女学校の教師だった弥生さんは8月6日の早朝、自宅を出たまま戻らなかった。爆心地から約1・4キロの西白島町(現中区)にあった校舎は全焼。1歳だった中原さんは母と兄、祖父母と自宅で被爆した。「父は原爆の話をせず、叔母のことも『学校で死んだ』としか教えてくれませんでした」。子ども心に、父の悲しみを察した。

 昨年、兄の敬司さんが亡くなり、原爆死没者名簿に登録された。弥生さんのことがふと気になり、市に確認すると未登載だった。被爆から数年後に他界した母と祖父の名前も漏れており、3人は同年8月6日に書き加えられた。

 「弥生さんのことをもっと知りたい」。そんな思いから今月3日、いちるの望みを掛け、6日まで「原爆罹災者名簿」が公開中の広島国際会議場に足を運んだ。すると「東警察署 検視調書」に記載があった。1945年9月5日付の文書で、学校の事務室で焼死したと書かれていた。

 中原さんは5日、自らの母校でもある安田女子中高の原爆慰霊碑を訪れた。弥生さんの当時の年齢と同じ23羽の折り鶴をささげ、手を合わせた。石板には、弥生さんを含む教諭13人と生徒311人の犠牲者名が刻まれている。「原爆に奪われた命なのだと、これまで以上に実感しています」。6日朝、石板の前で同校主催の慰霊祭が行われる。

(2020年8月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ