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[ヒロシマの空白 被爆75年] 軍医だった父 面影求めて 医師松本隆允さん 「あの日」と向き合う

遺品見て無念さ思う

 医師の松本隆允(たかのぶ)さん(74)=広島市中区=は1945年8月、軍医だった父清徳さんの被爆死から1週間後に生まれた。同じ医師の道を歩みながら、父のことや親子を引き裂いた原爆について振り返らずに生きてきた。だが75年がたとうとする今、「空白」となっている父の面影を探し始めた。(桑島美帆)

 「うちがあったのはこの辺ですかね。おふくろは馬に乗って出かけるおやじに手を振りよったそうです」―。原爆ドームを望む本川小(中区)近くの川べりで、松本さんが被爆者の西敦子さん(84)=西区=に尋ねた。「松本家はあの端の方です」と西さんが応じた。

本紙企画が契機

 2人の出会いは、4月に本紙掲載の被爆75年企画「ヒロシマの空白 街並み再現」がきっかけだ。松本さんの両親は鍛冶屋町(現中区本川町)に住んでいた。本川地区の被爆前について語る西さんの記事を読み、「父について手掛かりを知りたい」と連絡した。

 清徳さんは、旧制広島高(広高、現広島大)を経て42年に東京帝国大(現東京大)医学部を卒業し、広島に戻った。75年前のあの日、広島城付近の中国軍管区砲兵補充隊で被爆し、1週間後に搬送先の広島第一陸軍病院戸坂分院(現東区)で息絶えた。27歳だった。

 その翌週、母光恵さん(2008年に85歳で死去)の古里、十日市町(現三次市)で松本さんは産声を上げた。周囲は光恵さんに「負傷者の治療で忙しくしている」と清徳さんの死を伝えなかった。後に知ると、赤ん坊を連れて自死しようと線路上をさまよい歩いたという。光恵さんは77年に出版した短歌集の巻頭に、夫が「元気な赤ちゃんを抱いて帰る日を待つ」と帰省時に見送ってくれたことを記している。

 松本さんは、光恵さんが戦後に再婚した家庭で育った。実父の存在を知らされたのは12歳のころ。以来、母はよく「清徳さん」との思い出を語ったが「聞く気になれず、右から左へと流していた」と振り返る。

 母の期待に応えて東京の医大を卒業し、72年に医師免許を取得。現在の広島赤十字・原爆病院などで勤務した後、診療所を開業した。74年に結婚した妻の父親は、日本被団協の初代事務局長を務めた故藤居平一氏。反核運動は身近だったが、被爆者に献身する義父の活動から距離を置いた。「おやじと祖母、叔母も原爆で亡くなったのに、被爆者は生きている」という複雑な思いもあったという。

 その心境は、徐々に変わっていく。年を重ねるうちに、両親の遺品を見返すようになった。広高の卒業アルバムを開くと、父の筆跡とみられる「夢!」の文字と、息づかいまで伝わってくるような熱い言葉が躍っている。突然、未来を絶たれた父の無念さを思った。父を知る人たちは既に他界しており「早く聞いていれば」と後悔の念が募る。

データを寄贈へ

 「原爆は遠く年月隔てども許せぬ怒り 今も変(かわ)らず」―。母が詠んだ短歌はきっと、多くの遺族が抱いた思いだろう。松本さんは近く、清徳さんの卒業アルバムのデータを広島大文書館(東広島市)に寄贈する。

(2020年8月6日朝刊掲載)

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