世界のヒバクシャ
序文
暴力・人類生存に関するセンター所長
冷戦が終結し、世界がより明確に見えるようになった。国際的な認識は奇妙な二極化によって消耗させられ歪められてきたが、むやみに従属を強いられた時代はもはや終わった。新たな始まりは混乱を伴うが、新しい洞察も可能となった。
ただちに明白になったのは、人間と核技術における長年にわたる不条理な関係である。冷静に振り返れば、道徳的に狂気の2超大国が、互いに相手を壊滅させ、その他の国々も道連れにすると脅迫し合ってきたのだ。その異様な取り決めによれば、いわゆる「核抑止力」の「信頼性」を維持するために、ある条件、すなわち互いに相手が優位とみれば、両国とも核軍備の増強を絶えず続けなければならなかったのだ。
しかし、このような核兵器政策だけでなく原子力発電技術も含めて、人類にもたらす核の代償が表面化しつつある。これらの代償を理解する鍵が、私が広島の被爆者を調査したときに非常に印象深かった1つの現象にある。彼らの体験を私は「見えない汚染」と呼んだ。被爆者は未曾有の規模の破壊をもたらした兵器に遭遇した。さらにその兵器は、致命傷ともなる放射能という「毒」を被爆者の体に残した。それは見ることも感じることもできず、臭いもなかった。その毒はすぐさま顕在化することもあれば、何十年も静かに潜んでいることもある。
被爆者は生涯「見えない汚染」の恐怖にさらされている。その恐怖は何世代も続くかもしれない。最近、広島を訪れた折、人々は子の世代に遺伝的異常の有意な増加が認められないという研究結果が出て安心したとの声を聞いた。しかし、孫やそれ以後の世代がどうなるか心配だと付け足す被爆者もいる。本書は世界のさまざまなヒバクシャが経験している「見えない汚染」の影響と恐怖について、最も幅広く取り上げた「証拠文書」である。
核技術に対する人間のゆがんだ心理が、私たちを核技術の自滅的な追求に駆り立てる。私はこの精神的な病を「核至上主義」と呼んでいる。核至上主義とは、核技術に過剰に依存する、崇拝に近い状態を意味する。核兵器は、私たちを危険や悪から守り、世界を存続させ、救いをもたらす手段として信奉され、事実上の神となり得るのである。
驚くべきことではないかもしれない。というのも、核兵器は究極の技術と究極の力を併せ備えたものであるからだ。核兵器は世界の破壊という、これまで神にしかできなかったことができる。ならば素晴らしい創造もできるはずだと人々は考える。このようなゆがんだ考えは核兵器の出現以前からあり、マリー・キュリーやそれ以前にさかのぼる最初の放射線神話にも見られた。放射線は生活を向上させる魔法であり、永遠の命を与えることができるとさえ言われた。
その神話が、最近になって最もグロテスクな形をとって計画されているのが、かつてない爆発力を持つスーパー兵器とされる核兵器である。これは地球上で使われるのではなく、大気圏外から地球を脅かす「キラー小惑星」や「地球終焉(しゅうえん)彗星」に対してのみ使われるとされた。物理学者のエドワード・テラーは最近、ロス・アラモス国立研究所で開かれた核科学者の会合で、このような説をドラマチックに主張した。同研究所は、広島の原爆が開発されたところでもある。議事進行中に会議室の後ろから、「核よ永遠に!」と叫ぶ声が上がった。こう叫んだのは、テラーの高弟の一人だった。私たちをまさしく絶滅させる可能性があるものが、宗教的熱情によって不滅のものとされ得ることを示す一例である。
本書は核兵器および核技術の実体を明らかにし、核至上主義からの脱却をめざす私たちの闘いの中で、大きく貢献するものである。米国のスリーマイルアイランドやナバホ族居留地、チェルノブイリや周辺地域など、さまざまな場所において核至上主義の病ともいえる放射線の影響を調査するうえで、確固とした公平な立場を貫いている。核兵器と核技術の誘惑が、すべてに影響を与えていることを示している。
本書の優れた点は、どこまでも人間に関心を寄せていることである。技術的成果やリスク評価といった疑似科学的なレトリックを避け、技術のさまざまな段階が人々に何を与えてきたか、その結果生じた恐怖、怒り、フラストレーションなどを率直に描いている。本書は賢明にも核兵器製造と原子力発電の両方の影響を取り上げている。2つのものは社会的・政治的には別の問題であるが、放射能の毒や、その毒に対する身体的・心理的な反応は、両方ともあまりにも似ている。私がペンシルベニア州スリーマイルアイランドの人々をインタビューしたとき、見えない汚染に対して彼らが感じていた恐怖は、まさしく広島で私が聞いた話を思い起こさせた。このような恐怖は決して病というものではない。米国の偉大な生理学者、ウォルター・キャノンがかつて名づけた「体の知恵」に相当する心の在りようを体現しているのだ。
広島の憂慮するジャーナリストたちがこのプロジェクトに取り組んでいるのは非常にふさわしい。有力紙である中国新聞は、原爆投下後、数十年にわたって広島の人々の体験や思いを伝える主要な情報源となってきた。編集者や記者たちは、広島の犠牲者を代弁して、私が「生存者の使命」と呼ぶところの役割を引き受け、被爆者の恐怖や葛藤や苦痛を、意義深い探求活動に転換することに献身的に取り組んできた。
彼らの貢献は、放射線の人体影響に関する記述にとどまらない。彼らはその調査方法によって、私が「種のメンタリティ」と呼ぶところのものを示してきた。つまり自身が所属する集団や国を超えて人類全体に関与する姿勢である。彼らは「運命の共有」という気持ちを私たちに抱かせる。私たちは皆、地理的にも時間的にも境界を知らない技術の普遍的な影響を受ける。私たちは運命共同体であり、被害者とも加害者ともなり得る。(放射線被害の責任者となった集団は、どこでも驚くほど同じパターンの行動をとる。彼らは偽りの安心を与え、事実を否定し、精神的な無感覚、すなわち感覚の麻痺を奨励する)
本書によって、核技術が人類という種を危険にさらしているという純然たる真実に気づかされる。2つの決定的な理由がある。いかにリスクが少ないと主張されようが、核事故または核爆発は制御不能なこと、そして人的ミスを皆無にはできないことである。どれほど優れた技術でも、誤りをおかしうる人間の手で管理しなければならない。故に核兵器や原子力発電は、どれほど必要だと言われても、これらに勝る選択肢がある。
また、運命共同体という認識から生まれるメンタリティは、私が「種としての自己」と呼ぶところの能力を刺激し拡大する。この言葉は自分とかけ離れた崇高な理想を指すのではなく、地球上のあらゆる他者と自己とが重要な形で結びついているという事実を実感することである。そのことで自らが米国人や日本人、ナイジェリア人でなくなるわけではない。母親や夫、医師、労働者でなくなるわけでもない。自身にとってより身近なアイデンティティーを放棄するというよりも、より大きな人類としてのアイデンティティーに自己を組み入れるのである。
本書の著者たちと世界を巡りながら気づくことは、私たちは自らの「致命的な核技術」によって、「種のメンタリティ」と「種としての自己」という基本的な考えを持たざるを得なくなったことである。私たちはこの技術を放棄して他のものと置き換えることによって、人類の未来のために、共に機能する能力を確固たるものにすることができる。