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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 大沢美智子さんー独神父のおかげ 命継ぐ

大沢美智子(おおさわ・みちこ)さん(91)=広島市西区

母・姉と生き埋めに。救出の恩人 記事で知る

 原爆の爆風で倒(たお)れた家屋の下敷(したじ)きになった大沢(旧姓吉川)美智子さん(91)は、あの日の深夜、偶然(ぐうぜん)通りかかったドイツ出身のクラウス・ルーメル神父に助け出されました。母や姉たちを原爆に奪(うば)われながら、奇跡的(きせきてき)に救われた命を孫、ひ孫へとつないでいます。

 当時は広島市立第一高等女学校(現舟入高)の4年生。15歳でした。授業はなく、戦争のため級友と西蟹屋町(にしかにやちょう)(現南区)の日本製鋼所に動員されていましたが、1945年8月6日は工場が稼働(かどう)を止める「電休日」でした。

 西白島町(現中区)の三篠橋(みささばし)近くにあった自宅で、姉千鶴子さんとその夫の児玉和雄さん、母アサヨさんと朝食を終え談笑していた時です。電気がショートしたような光を目にし、体が吹き飛ばされました。爆心地から1・4キロ。2階建ての大きな家が崩(くず)れました。

 柱に阻(はば)まれ、身動きが取れません。児玉さんはすでに息絶えたようでした。「おなかの子が動かなくなった」と千鶴子さんの涙声が聞こえます。お産のため夫婦で東京から帰省中でした。「若い娘がいます。助けて」。アサヨさんが何度も叫びましたが屋根や土壁が覆(おお)いかぶさり、上の方で足音がするばかり。次第にパチパチ…と木が燃える音も聞こえてきました。

 すでに夜中でした。意識が遠のく中「ココデスカ、ココデスカ」という外国人の男性の声でわれに返りました。米兵かと身構えましたが、違うようです。警防団員と一緒になって母娘を救出し、土手に寝かせてくれました。「周りは大半が焼け、福屋百貨店の窓からぱっぱと火が出るのが見えた」。夜が明けると父親と親戚(しんせき)が駆(か)け付けてくれ、馬車の荷台で戸坂村(現東区)へ運ばれました。

 がれきから引っ張り出された際、母と姉の顔や手足の肉はそがれ、骨がむき出しになったためうみが出続けました。千鶴子さんは丸々とした男の子を産みましたが、死産でした。この世に生まれた証しとして「一雄」と名付けたそうです。

 3人は戸坂国民学校(現戸坂小)の救護所に収容された後、矢賀国民学校(現矢賀小)へ移されます。周りの人たちが次々と亡くなり、校庭で焼かれる中、夫と子を亡くし絶望の淵(ふち)にいた千鶴子さんも10月23日に息を引き取りました。

 大沢さんは終戦後を生き抜くため、戦地から復員した兄と福屋百貨店前でピーナツを売るなどして家計を支えました。24歳で結婚。すぐに長女優美さん(66)、次いで次女紀美さん(61)を授かりました。しかしアサヨさんはほぼ寝たきりになり、白血病なども患(わずら)って56年に他界しました。

 あの時の「命の恩人」がイエズス会のルーメル神父だと知ったのは、昨年秋。ローマ教皇の広島訪問を前に中国新聞に掲載された記事がきっかけです。祇園町(ぎおんちょう)(現安佐南区)の長束修練院から市内へ救護に向かう途中、三篠橋近くで家屋の下敷きになっていた母と娘2人を救出した、と神父が日記に残していたことが書かれていました。

 「助けに来てくれたお礼を伝えたい」という思いが募(つの)りましたが、神父は9年前に他界していました。日記は現在、原爆資料館に常設展示されています。

 市女の同級生や下級生も大勢亡くなり、生き残ったことに負い目を感じてきたという大沢さん。「今思えば、何とひどいことをされたのか。核兵器は、落とす方も落とされる方も、もろとも殺してしまう。核を持つなんてつまらんことじゃと思います」―。そう訴えました。(桑島美帆)

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私たち10代の感想

国籍超え話し合いたい

 ルーメル神父が、戦時中も国の違(ちが)いで差別せず、大沢さんたちを助けたことに感動しました。被爆直後の混乱の中、簡単でなかったはずです。紛争が続く国際情勢について「武力でなく話し合いで解決してほしい。昔と違い、今はできるはず」と語っていました。国籍(こくせき)の違いを超え、話し合いで解決できる人になりたいです。(中3中島優野)

当たり前の毎日が幸せ

 大沢さんは一緒(いっしょ)に朝食を取っていた義兄を亡くし、姉や母も原爆で帰らぬ人になりました。僕も家族と夕食を囲んでいる時に「もし今同じ状況が起きたら…」と想像しました。考えるだけで恐ろしく、当たり前のように過ごせる毎日が幸せなことに気付きました。家族や友達を奪う戦争を繰(く)り返してはなりません。(中2武田譲)

私たちが願いをつなぐ

 大沢さんは被爆体験を語りたくなかったそうです。それだけ戦争は残酷で、苦しい記憶だということを思い知らされました。「家族が苦しんでいたことを思い出すと辛い」という言葉を聞き、75年前の戦争はまだ終わっていないのだと実感しました。「戦争をなくすべきだ」という大沢さんの願いを私たちが受け継いでいかなければ、と強く感じました。(中3三木あおい)

(2020年12月7日朝刊掲載)

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