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連載・特集

原発事故10年 「浜通りの50人」のいま <2> 古里は遠く

進まぬ帰還 絆は今も

 着の身着のまま避難した。古里に戻れるか、国はなかなか見通しを示さない。揚げ句、自宅の敷地が除染作業で出た汚染土を保管する国の中間貯蔵施設に組み込まれた。東京電力福島第1原発事故に振り回された尾内武さんは節目の10年に何を思うのか。聞くことはもう、かなわない。

 持病の悪化で一昨年夏、70歳で亡くなった。避難先の福島県会津若松市で。事故前は同県大熊町に暮らした。元町職員で原発から約1・5キロの場所で農業を営む傍ら、行政区長として人望を集めた。避難先でも町民の相談に乗ってきた。

「もう住めない」

 「大熊にはもう住めないと、あの人も分かっていたはず」と、妻ハツ子さん(70)は振り返る。心が折れたのは2014年春。中間貯蔵施設の候補地に自宅が入っていると知った。「古里の光景が変わることを、夫は最期まで嘆いていた」

 国の避難指示が出た同県南相馬市や浪江町など11市町村には事故前、計20万人が暮らした。しかし今年2月1日時点の居住者は4割減の約11万2千人。国や被災自治体が思い描いた住民の帰還は進んでいない。

 復興庁が浜通りの双葉、大熊、浪江、富岡の4町で昨年実施した住民意向調査でも「戻りたい」との回答は各町ともおよそ1割にとどまった。一方で「戻らない」は5~6割でいずれも19年の調査とほぼ同水準。「既に避難先に生活基盤ができている」との理由が多かった。小畑明美さん(54)もその一人だ。

 原発が立地する双葉町で農協職員として働いていた。事故を受け、町は約190キロ離れた埼玉県加須(かぞ)市にある旧騎西高の廃校舎に臨時役場を設置。町民の1割強に当たる約千人も3年余り、ここで寝泊まりした。

夢語る子に希望

 小畑さんも夫と一人息子の3人で加須市に向かった。最初になじんだのは地元の小学校に入った大地さん(16)だった。友達が増え「転校したくない」と言いだした。避難6年目に思い切って同市に家を建てた。ところが翌年、慣れない生活で肝臓を悪くした夫一彦さんが54歳で亡くなった。

 新しい生活が根を広げる中、小畑さんの胸中で双葉町とのつながりは細った。それをつなぎとめてくれたのも大地さん。「お父さんの遺骨を双葉の墓に納めたい」。町への一時立ち入りが許される15歳になった一昨年の6月、母子は避難後初めて古里の土を踏んだ。

 大地さんは今、高校1年生。将来の夢は教師だという。「福島のことを多くの子どもに教えたい」と語る姿に、小畑さんは被災地の希望を見る。(下久保聖司)

(2021年3月12日朝刊掲載)

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