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連載・特集

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <中> 報道戦士

母姉の無事念じ奮闘

課せられた士気高揚

 27歳。八島ナツヱさんは必死の思いで広島市へ入り、中国新聞社に向かって歩いた。「家族の安否」を何より確かめたかった。被爆者健康手帳の交付申請書に付けていた手記は、上流川町(現中区胡町)にあった社での生々しいやりとりを残す。本社全焼の翌8月7日には十数人がいた。

 「『行っても無駄だ』と言われたが、平塚町の家に行った。防火水槽を目標に道を頭の中で復元しながらたどりついた」。現在の中区西平塚町に母ミ子(ね)さん=当時(66)=たちと住んでいた。「念入りに探してみたが/死体がなかった。『母は生きている』と確信し、やっと勇気がでてきて、また中国新聞にひき返した」

 県は7日、知事告諭を出して、今も南区に立つ陸軍被服支廠(ししょう)や、古田国民学校(現西区)などに「救護所開設シアリ」とビラで伝える。救援活動は大混乱のうちに始まり、宇品港そばにあって甚大な被害を免れた陸軍船舶司令部が直後から出動して指揮を執った。

 自身は「『紙がないから、声の新聞を出そう』」と表した口伝(くでん)隊員となり、壊滅の市内をトラックで回る。「ニュースを伝え」ながら、母や姉で女子商教諭の光江さん=同(31)=を捜した。母が比治山(現南区)にいるのは分かった。

掲載された写真

 口伝隊員は、焼け残った広島東警察署に置かれた臨時県庁を拠点に、負傷者の収容先や食糧の特別配給、被害の底知れぬ状況を肉声で伝えた。そして「心配しないようにと付(け)加え」た。校閲主任の大下春男さん=当時(42)=が、自身も務めた口伝隊に関して書き留めた一節だ(1953年発行の「秘録大東亜戦史」収録)。

 県が8月21日にまとめた「広島市空襲被害並ニ対策措置」(県立文書館蔵)は、口伝隊編成の狙いや記者たちに課せられた務めを浮かび上がらせる。「口伝報道壁新聞ヲ以(もっ)テ/当局ノ方針等逐次発表 民心ノ安定ト士気ノ昂揚(こうよう)ヲ図ル」

 戦時下の記者は「報道戦士」とされた。軍と官による報道統制下、「ニュース」は当局が認めたものでもあった。最大の当局だった大本営は広島が壊滅した翌7日に「相当の被害/新型爆弾」と発表した。

 「広島の戦訓」。この見出しも付けた朝日新聞西部本社版8月10日付には、「優しい声で戦災者を励ます女子報道班員」の写真が載る。中国新聞整理部員で紙面(当時は2ページ)の編集に当たり、口伝隊員を務めた八島記者ではないのか―。

 プリントは残っていないためマイクロフィルムからの紙面を、めいの八島晴美さん(83)=安佐南区=に見てもらうと、「顔の輪郭は似ている気はしますが…」。断定はできなかった。

終戦まで務める

 長男の山田大乗さん(66)=東京都=は「大正生まれとしては身長が157センチあり、バレーボールで活躍したそうです」と答えた。母校・県立広島高等女学校(県女、現皆実高)の同窓会資料から、34年の全日本排球選手権女子中等部で初優勝していた。9人制の後衛と分かった。

 八島さんは終戦まで口伝隊の活動を担う。「八月十六日からは単独行動を許してもらい/姉をさがし歩いた。そのうち私自身吐血、血便し、歩行も不可能となった」。まさに身をていしての口伝報道だった。(西本雅実)

(2021年4月6日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白] 壊滅直後に「声の新聞」 「口伝隊」の元本紙記者八島ナツヱさん 被爆33年後に手記

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <上> 戦時下の女性記者

ヒロシマの空白 口伝隊1945年8月 <下> 被爆記者

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